夢判断では、しばしばお金や金運に関わるシンボルとして、排泄物が出てくる。
おそらく、我々は無意識でお金が経済活動・生命活動の「結果としての排泄物」であると認識しているのかもしれない。
「お金に汚い」という言い方もあるが、それ以前に、生命の発生そのものから考えると、生命はすべて消化管から発展してきたのだという考えがある。
原初の海、生命スープと呼ばれる自然にできたアミノ酸の濃密な海で、核酸が出来、RNAが構成されたとき、おそらくそのバラバラの核酸がRNAとなり、反応の中でより効率のいい反応を求めて自己組織化でできたのが、消化管、チューブワームだったという。
でも、そこには価値はない。
すいこんで、はきだす。そのはきだしたものを、すいこむ。それを経済と名付ければ、なんということはない、いろいろときれいなモノに彩っても、結局は他人の排泄物を食べて排泄物にして売っているのだ。
お金は結果にすぎない。結果を起点にして、お金にし、結果を作る。それがアートであろうとも。
しかし、それをつなげて、分解して、分散させてできたのが知識であり、情報であり、そしてそれが作るのは、不安である。
常に食べて、はき出すそのぐるぐるの連関がとぎれたら?
お金はまわりものともよばれるけれど、要するに蓄財というのはそのまわるもの、排泄物をため込むのだから、そりゃ便秘になって身体に毒素が回る。
というわけで下剤を飲むと、ものすごい下痢になって身体がやっぱり大変になる。
それが景気の循環などと言うものに言い換えてもいいかもしれないのだけど、結局使いもしない金を集めたり、他人の金を預かって増やしたりという行為自身がそもそも原理的に不健康なのだと思う。
夢はその不健康性をもともともつお金を、だから排泄物として反映するのだ。
だが、その不健康なお金は、元々の健康な社会の本体が大きくなると、社会のうちに一部不健康であってもよくなってしまうところから、不健康な職業というモノが出てくる。
しかも、その不健康さを金融工学として、数学、特に確率論もあるけれど、ゲーム理論なんかも合わさってノーベル賞学者が太鼓判を押しちゃうと、普通の人は、特に不安を持っていたら、だまされざるを得ないだろうと思う。
もともと「世界は計算可能でない」という言葉や、不確実性不確定性で数学はそれ自身もまた「特異点」を持つのであり、森毅さんは「数学大明神」と皮肉ったように、もともと数学とか経済学がそんなに偉いのかと疑ってみると、何のことはない人の営みであり、不条理という特異点を持ち、それに向かうことを恐れる不安解消には何の役にも立たないことは、ほかの学問と同様の価値しかない。
そのうえ、政治や行政や監査法人でその強欲を縛ろうとしても、政治も行政も監査法人も不安を解消する神様ではない。
要するに、そういう不安をきっかけに、不健康な営みでどんどん価値の数値化・証券化に紛れ込む嘘とレバレッジで積み上げてきた塔が、バベられた(聖おにいさん)だけのことなのだと思う。あるいは砂上の楼閣として崩壊したか。
しかし、この現世に王道楽土はなく、情熱を持ってそれを作ろうとも、もともと「不条理性定理」というか、不安は無くならないし、やった仕事は突然消えてしまう。他の人が代わりにやったりすることもあるし、仕事の内容は死後の世界に持っていけない。
となると、もともと経済学とかで子供を育てるといくらいくら、結婚するにはいくらいくらという算出自身、恋人を作ってエッチをすると、ソープでするより安く上がる、みたいなばかげた要素が入り込みかねない限界のあるものだ。
もちろん文明はこれからも進化する。感性もいずれ文明が解明するし、それは数値化に繋がるので、数値化され、未来もある程度予測可能になるだろう。
だが、もともと生まれたときから、根本が不条理なのだ。
生まれる場所も選べず、地域も選べない。そんな状態でフェアなどあるわけがない。
人間は不条理であり、不平等なのが当然だ。
もちろんそのなかから「ほうっておけない」と思っていろいろな仕事をするけれど、本来、元々我々は消化管として、吸い込み、はきだすという、食べて、寝るという目的以上に行うことは、資本論的に言っても「遊び」でしかない。
でも、「たかが遊び、されど遊び」に思うところから、私はその遊びも仕事も、どちらも意欲をもって、自発的にやる意志がある限り、ちゃんとそれなりに楽しいと思う。
お金の余裕、生活の余裕、などといっているのは、背景の不安の対義語にすぎない。
つねに「なんとかやっている」、それぐらいに思っていれば、別にババ抜き証券化ゲーム経済につきあわずとも、生きてはいける。それでいいのだ。
期待したことは裏切られる。意欲はそがれる。あるモノは奪われる。稼いだモノは消える。意味のあるものは意味が無くなる。壊れないモノはない。
不安は、解消するものではない。和らげつつ、あっても一病息災と思ってやりすごすしかないものだ。その不安を経済にしろ情報産業にしろ、あおり、拡大することで自己を拡大しようとした。
しかし、彼ら自身も、また不安なのだ。
その不安ゲームを終わらせるのは、不安をなくすことではない。
不安をもちながら、そればかり考えずに、ほかの営みに集中することだけだ。
要するに、やりすごすしかないのだ。
そして、そのあとで大事なのは、その消化管であることをわかりながら、ささえあえる、仲間や大事な人をもつことと、その結果の子供をもつことなのだ。
これから政治家が「不安解消」などという時期になる。
だが、誰もがみな不安だ。
そして、なによりも選挙を戦う政治家は自身のことが一番不安だ。
そんな連中に不安を解消してもらおうと思ってはいけない。
でも、ともに放っておけないからやろうと思う、という自発性だけを価値として、集まるのはいいことだと思う。
結局、人間は、だれかを放っておけないという気持ちと、さまざまな不安を構造的にもった、消化管なのだ。
あと、よけいなことだが書いておく。
自分とつきあってくれる異性なんかいるわけない、という発想自身、もうどうしようもないDT(童貞)思考であって、その言い方の背後に自分が特別で、普通とは全然違うんだというものすごい自意識過剰がある。
世の中は広い。そして割れ鍋に綴じ蓋なんて言葉もある。
私だって、結局結婚に至る道を思い返せば、なんだ普通の男だったんだな、なんて省みてしまうのです。
世の中、自分だけが特別だと思ったら、大間違いでした。
なかなか非凡な人物になるのは、難しいことです。
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