シビリアンコントロールかマインドコントロールか | モデラー推理・SF作家米田淳一の公式サイト・なければ作ればいいじゃん

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 注)これは私が私人として思うことで、退役した父とはまったく無関係です。
 

 田母神論文について。
 
 まず、この論文について、歴史認識の問題だの、根拠に乏しい陰謀論という連中がいる。
 
 現実には、そんなことどうだっていいのである。
 
 現場で命を張って侵略を阻止する任を持った自衛官にとって、必要なのはファイティングスピリットであって、歴史学ではない。

 勘違いしてはいけないのだが、「同じように」ソ連の軍人でアフガン侵攻を批判したらクビになる、という論を張る人がいるが、それは「ソ連にはアメリカ大統領を批判する自由があるからソ連は自由な国である」というジョークの図式と同じであるから話にならない。まあ、そういう人々はそういうソ連みたいな指揮官に政治将校を同伴させるような全体主義国家にしたいのだろう。

 だが、ソ連時代をロシア軍がすべて否定するかというと、そんなことはない。

 なぜなら、戦ったのはソ連軍であり、戦うことを命令したのはスターリンの政権であり、共に血を流した戦友を批判するような軍隊が国を守ることなどできないのも自明であり、なおかつ、その認識を持たない自衛官が駐在武官として国際関係においてロシア軍の軍人とまともな話ができるわけがない。

 戦友とはそういうものである。同じく苦しみ、同じく寒さに凍え、暑さに耐え、悲しみを共有する戦友は絶対である。ましてや戦友とつながっている過去の退役兵とこれからの若年兵を守らないなんてのも最低である。

 繰り返す。歴史認識は歴史学と政治の問題であり、自衛官は皇軍の時代からの歴史を学ぶことは大事であり、それが政治と相容れないとしても、それは政治のレイヤーと重なる自衛官の戦友としてのレイヤーとして考え、戦友を守りながら、政治に従う、それがシビリアンコントロールである。

 それを戦友を否定せよ、皇軍を否定せよと言うのなら、それは戦う意思、闘志をくじけさせてしまうマインドコントロールであり、それは民主国家を守る軍隊として戦えないのだ。

 なぜなら、皇軍時代から平和憲法の時代になって、日本の山河の何が変わったのか、ということになる。陸自では同じ地形で戦うことになるのだし、空自でも同じ空を、海自でも同じ海を戦うのだ。そこに連続性がないというのは、朝日新聞自身が過去を、戦時中に受けると思って書いた軍部賛美記事や、サンゴに字を書いたことをすっかり切り捨てているのと同じになってしまう。

 一応朝日新聞は検証したというのだが、読めば読むほど不愉快にしか鳴らない自己弁護の羅列でしかなかった。

 自衛官はボクサーであるべきなのである。戦うべき相手がいるかぎり、戦うリングが生じたら、相手を打ちのめさねばならない。打ちのめされても、必死に戦わなければならない。それがボクサーのファイティングスピリットである。

 そのボクサーにセコンドが「おまえの先輩は悪いことをしたんだ、相手のほうが正しいんだ」ということはありえないではないか。

 ボクサーは相手にたいして敵愾心を持つ。しかし、勝っても、ノックアウトされても、判定に持ち込まれたとしても、同じボクサーとして相手を尊重する。

 しかし、相手のボクサーは敵である。

 なぜそれがわからないのか。

 シビリアンコントロールとは、そのボクシングの試合を決める興行主が試合をいつに、誰と戦うかを決めるかのコントロールであって、シビリアンはセコンドではないし、なってはいけない。

 逆にボクサーが誰それをリング外で殴れば、それは犯罪であり、それはシビリアンコントロールが効いていないところである。

 そして、一度もボクシングをしたことのない人間がセコンドの位置まで入り込んで、素人の知恵でボクサーにこう戦えというのは、当然これもボクサーは闘志を失うだろう。

 田母神さんは位置的にはセコンドである。そして、世界がどういう悪意に満ちてきたかも知らず、特攻服しか特攻というものを知らない若い世代の自衛官、ボクサーに、どういうボクサーがいて、と教えるのと同じである。

 確かに正しい歴史認識なんてものがあれば、それは便利だろう。しかし現実にはそれは正しいと言うことなどできない。

 事実は事実であっても、それが正しいかどうかは歴史を見る人間の立場によってぜんぜん違うのだ。歴史観に名を借りたイデオロギーにすぎないのだ。

 そこをはきちがえてはいけない。事実を積み上げても、正しくはならない。せいぜい多数を占めるとか、その程度の話であって、正しい軍隊などこの地上に一度もあった試しはないし、逆に悪い軍隊もなかった。みな、命ぜられて命をかけ、時に死に、負傷し、生き残っても悪夢の戦場の記憶にうなされさえする人間なのだ。

 守秘義務のようなものだというのなら、何を秘することがあったのか。寄稿ということでデリカシーには欠けている面があるが、しかしこれで自衛官が議論したりすることが禁じられるのは、自衛官をロボット化することであり、それはシビリアンコントロールではない。マインドコントロールである。

 それに、田母神氏がやったことは、おそらくこうなることもコミであったと思う。

 現実には朝日新聞は必死にご注進をしたようだが、火もつかない。なぜなら中国人民解放軍にせよ、北朝鮮軍にせよ、みな全体主義の国の軍隊として政治と密接につながっていて、シビリアンコントロールなんてものはないので、そんなことをいえば自分たちの軍隊も国もおかしくなるからである。先軍政治の国でシビリアンコントロールなど言い出したら反逆罪であろう。

 これは心の問題であり、正しい正しくないの問題ではない。正しいか正しくないかは有権者と政治の判断であるが、それと内心のファイティングスピリットの問題は別である。

 朝鮮戦争でのマッカーサーの更迭の問題ともまた別である。マッカーサーは現に戦っていて、その職として現実になし得る可能性のある軍事行動、戦術としての核攻撃を計画し、戦略として考えている政治と齟齬を起こしたから更迭されたのである。

 ところが今の日本で同じ状況はないのである。北朝鮮を爆撃すると具体的に計画し、政治の認証を求めたら、認証を求めるところでアウトだろう。だが、北朝鮮と戦闘状態になるかもしれないということを命題として研究するのは、自衛官の当然の仕事である。だが、それを政治にやりましょうと言ったらアウトである。

 ところが、三矢研究の時は研究だけでアウトにされた。これは大きなトラウマとなり、自衛官は想定をもった訓練さえできないことにされてしまった。

 シャドウボクシングだけで、スパーリングを禁じられたのだ。これではボクサーではない。

 まあ、もともとこういうのにたかっていろいろ言うのは、元々自衛隊を違憲だと思っている連中と、違憲合法論でしのいでればいいと思っている怠惰な連中の問題である。

 
 田母神論文は、この日本で、だれが真剣に考えて、だれが未だにイデオロギーの夢を追い続けているか、グレーであった境界をハッキリ分けることとして、実に効果があったと思う。

 だれがわかっていて、だれがわかっていないか、だれがわかったふりをしているか。

 それがはっきりしたのだし、田母神さんも退職金をもらううえに国際特派員協会で持論をぶてたので、思惑通りだろう。

 それと、その次のことについては、実は非常に思惑通りだったと思うが、これは私も驚いた。でも、大いに納得した。これについては分かる人だけ分かればいいのだ。
 
 要するに、結局ネットは現実の鏡であり、数年前まで機能していた知識や知性の場が、炎上だのなんだので機能しなくなるところで、実に現実社会と同じくなってきたと言うことも示していると思う。
 誰でもが参加できる世界というのは、要するに砂漠化した世界なのだ。
 
 そのことがよく分かった一件であった。以上、私の個人的な見解。