死刑廃止反対の立場から/人が人を裁くことを裁けるか? 人間の限界、そして裁判員制度 | モデラー推理・SF作家米田淳一の公式サイト・なければ作ればいいじゃん

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ブログネタ:死刑について考えてみる 参加中
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 私は基本的に、死刑をなくすことには反対です。

 死に値する罪は、ある。

 でも、それを決める裁判やそれ以前の捜査で、あまりにもこの国はひどい。

 たとえば代用監獄問題もある。
 志布志事件のようなまったくのでっちあげをやってしまう刑事もいる。

 亀井静香は警察官僚として捜査のことを調べ、その現状から言って人を死刑にできるほどの捜査は無理、という結論で死刑反対の立場らしい。

 ましてや国策捜査なんて言葉までできてしまった。

 
 でも、そこで『アイツを殺さなければオマエを殺す』という脅しで、アイツを殺しても自分が弁護などで無期になれば、殺し得となってしまう。

 
 それに、加害者の死でなければ救済できない悲しみや怒りもあると思うのです。
 もちろん、加害者を死刑にしたところで、被害者は戻ってこない。
 しかし、それと死刑問題を混同してはいけないと思う。
 
 ただ、検察も、検事も、裁判官も人の子であるし、弁護士によっては情状を求めて泣く練習をさせることもあるように聞いている。
 結局、そこで司法と法治社会を機能させるのは、結局裁判員しかないのかも知れない。

 
 私自身はたぶん統合失調症なので選ばれることはないと思うけれど、でも、死刑反対ということがファッション化されている朝日新聞的世界と、死刑存続を求めるマスコミの興奮ぶりと、そのどちらもいやで死刑囚の死刑執行にフタをする法務大臣の姿勢を見ると、どうにも行き詰まった感じがする。
 
 そこで元々考えると、だいたいに置いて刑法で罪名と罰則が決まっている上で、法曹世界があることは、やはり人間の弱さをあえて残しているのだと思う。エヴァンゲリオンのマギシステムのように。

 弱いからこそ、弱さをわかるし、その弱さをわかる人間は強い。

 そういうところで、裁判員制度は、現代のこの流れの速い時代に置いて、司法が本来の眼、人を見る眼を取り戻すためには必要に思う。

 裁判員制度とセットになってこそ、死刑存置が成り立つと思う。ただ、それには取り調べの録画・透明化も必要だし、楽になりたければ調べ官の言うとおりにして判を押せというえん罪を生む代用監獄の問題も解決せねばならない。

 とはいえ、これを全て改革するにはまたお金がかかり、そのお金がどこから持ってくるかも大変だ。
 

 人の命の関わるもの、という言い方がある。
 たしかに死刑問題もそうだし、平和憲法と自衛隊の問題も、さらには結局高齢者の問題も、結局命が関わる、というところで、オールオアナッシングになってしまうマスコミの煽り方もあるし、発言者の責任もあると思う。

 命には、残念ながら重さに違いがある。これは言うとものすごく騒ぐ人がいるだろう。でも、事実、我々は意識しないなかで、命の問題を軽さ重さを判断している。

 食べ物となる家畜も、牛豚は良くて犬は駄目とか鯨は駄目とか、そういう線引きがある。

 そこで、私は思う。それを恣意的というほうほど、本気で悩んでないだろと思う。


 人間は恣意的で、公平性もないし、平等でもない。


 事実、平和の祭典のオリンピックをみれば、見れば見るほど、悲しくなる。

 人生をかけてメダルを目指す選手と、政治と治安の境目を失った国家とナショナリズムが、混沌として作られている上に、それを応援する企業は企業でまた欲得ずくで、だんだんオリンピックって何のためなんだ、という気になってくる。

 でも、逆説的に言えば、その何のためなんだ、と考えることを面倒くさがったら、人は人でなくなる。


 日常の生活のなかでは、考えないですむことに過ぎないかもしれない。

 でも、日本はおおむねまだニートとして生きることもできる世の中なのだから、そういう問題について、考えても良いと思う。


 人間性は、美しくとも何ともない。むしろ醜悪で、捨ててしまいたくなる部分がたくさんある。

 人類の叡智、といっても、それで出来たスペースシャトルが落ちると、後知恵でハコモノだの政治的なモノだのハイコストだのと言い出す程度のジャーナリズムしか、日本にはないのだ。

 それに託した思想も、夢も、結果が出なければ叩きまくるのがいつからジャーナリストになったのか。本来はアンカーみたいな無署名記事で叩いても、その行き過ぎを止めるのがジャーナリズムではないのか。

 一緒になって煽ってどうするんだよと思うけど、この国には、後付で考えることしかできない新聞やTV、そして評論の世界しかない。

 
 しかし、本当に愛し、本当に悲しむと、自分が持たないかもしれない。
 その危険を避けるために、人間の視野には限界があるという人もいる。
 でも、結局は我々は全ての情報を裁量しているし、そのなかで熱くなったりドンビキしたりを繰り返している。


 だが、今の司法では、裁判官は天の声を期待され、その上で他人の住居に入り込んでまで意見を主張することが表現の自由だという人々を認めてしまうヘンな天の声まで生まれてしまう。
 特に昔聞いたが、統治行為論というのがある。つまり、あるていどの国策は、裁判では裁けないと言うのだ。
 たしかにそうだ。国の政策は、国民の投票で選ばれた政治家が決定する。そうでないものもあるけれど、ほとんどは政治家と、その政治家を選んだ国民のものだ。

 かえって裁判官にはせいぜい最高裁判事の国民審査ぐらいで、あとは苦情を言うぐらいしかない。

 三権分立とはいえ、司法が立法と行政に対して、ノーを言うとしても、行政はまだしも、立法の段階で国民が求める政策であれば、司法が卓越してノーを言っても、三権は分立しているのだ。司法が一番偉いわけではない。

 たしかに憲法が最高法規であっても、国民がそれを無視するのが通例になっては憲法はかえって形骸化の結果、法は結局形骸化していくのだから何をやっても良いという風潮になり、唯一の基準が儲かるか金があるかの拝金主義にもつながる。

 その結果が今の戦後生まれのつくる、拝金主義の世界だ。ホリエモンは金で何でも買えると言ったというのが残っているが、事実、経済事犯では、多くの場合、裁判で負けて賠償しても、看板を変えて同じことをするものが多いという。


 だからこそ、憲法も法であり、それが神から渡されたものではなく、人間が作ったというところを無視して、9条を広めようと言ったって仕方がない。

 だいたいに置いて憲法の平和精神が世界に共通なら、チベットで起きた事態は何だったのだ?

 国を失い、心もうしなった深い悲しみがなぜわからないのだ。

 その程度の理解もないのに、そんな言葉、お題目だけで世の中が良くなるのなら、この世はすでに天国になっているだろう。

 以前私がイマジンという歌が、実は悲しい歌だと思ったように、この地上は、地獄ソノモノだ。

 
 そう考えると、やはり裁判員制度というのは、改善と言うよりも、消極的な意味で推進せざるを得ないと思う。

 人が人を裁く限界を認めるなら、天の声を期待される人ではなく、技術的に議論を進行させるプロと、それぞれに考える裁判員という素人で分かち合うしかない。

 
 たびたびの私の世界観だけど、魂は、良くも悪くも不滅である。

 だとすれば、人間が神さまのマネをするほうが罪深い。

 
 私はそこで、裁判員制度などの司法改革を、消極的に支持するしかないと思っている。

 でも、司法そのものが、もともと消極的な性格があるのだから、それで普通だと思う。

 そして、死刑を存置することも、人間の弱さを認めた上で、それでも人の命を真剣に考えれば、人間は何をするかわからない恐ろしさも持っているのだから当然と思う。

 それも消極的でしかないが。

 だが、もし司法がすべてに積極的になったら、と考えたら、それよりはマシだとしか思えない。

 
 月に何件告発するのがノルマ、というような弁護士が軍隊よりも多くいるようなアメリカの現状を見ると、そう思うしかないと思う。


 
 ちなみに自著の宣伝になるが、拙著・シルエット・シルバーでは、正義の味方の限界を書いている。
 たしかに義賊にもあこがれる人もいるし、何か超越した組織を求める人もいるのもわかる。
 だが、そういう閃光は、一瞬はよくても、それは後始末が大変なのだ。
 ゴーストがいくらささやいてくれても、残念ながら、ゴーストはゴーストでしかない。
 そして、フリーハンドは、フリーではない。
 はじめはフリーハンドであっても、それは次第に周りに適用例という重しが出来て、そこで腕を振り回すとダブルスタンダードなんて言われてしまう。

 人は、鈍くて動かしがたい現実を生きるしかない。
 苦しくても、愛する人のために。