還暦過ぎの文庫三昧 -3ページ目

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2002年6月発行の新潮文庫。宮尾登美子さんを追悼して、もう一作読んでみた。朝日新聞の日曜版に連載されたことを覚えているし、1999年11月に朝日文庫に収録されたものの再文庫化だということだ。

 宮尾登美子の作品系列を眺めるとき、この『クレオパトラ』だけが異色であるような印象を抱くのは、自分だけではないだろう。「あとがき」にそのことが触れられていて、日本の伝統的な芸と習俗の世界と、そこに生きる人々を描きつづけてきた著者が、なぜ突然に、外国を舞台にした小説を書くことになったかが簡潔に記されている。「自分の作品の生涯の主題として、女の生きかた、を定めたときから、この稀有なる素材はぜひとも私自身で、私のこの手で描き上げたいもの、と念じつづけてきたのでした。」 なるほど、著者としては一貫性があったわけだ。エジプトの女王にして、いまなお語り継がれる絶世の美女、しかも恋の相手はかのジュリアス・シーザーであり、マーク・アントニーであったのだから、クレオパトラほどの女性は他に探しようがない。

 実は、新潮文庫発刊時に一度読んだのだが、そのときはただ読み流したという感じで特別な感興を持たなかった。その後、塩野七生の『ローマ人の物語』の文庫刊行が始まり、『ユリウス・カエサル』(全6巻)やオクタヴィアヌスを描いた『パクス・ロマーナ』(全3巻)などを読んできたので、その同じ時代をエジプト側から小説化したこの『クレオパトラ』が、今回は非常に楽しく読むことができた。歴史小説を読む場合、その時代背景をある程度知っていたほうがより多く楽しめるということを、改めて実感。

 クレオパトラは、エジプトでおよそ300年続くプトレマイオス王朝の第3王女として生まれた。この作品は、14歳になったクレオパトラが王朝内の後継争いを避け、奥地へ逃れるところから始まり、本来は女性は国王になれないという掟の中で、弟と結婚して共同統治者となることにより次第に実権を握ってゆく過程が描かれてゆく。そして、ポンペイウスを追ってエジプトへやってきたシーザーとの出会いがドラマチックに展開し、やがて二人の蜜月時代へと入ってゆく。ローマ帝国の最高権力者であるシーザーさえも、クレオパトラの魅力の前には形なしという感じで、二人の間にはシ―ザリオンが誕生する。

 シーザーがエジプトに滞在したままでは、ローマとその周辺に不穏な空気が流れることになり、彼はローマに戻ることになる。クレオパトラもその後を追い、ローマに住居を構えるが、そこにはシーザーの妻がいて、市民の目も冷ややかであり、彼女には必ずしも快適とは言えない暮らしであった。

 下巻に入ると、シーザーが暗殺される場面となる。クレオパトラは悲嘆に暮れつつも急いでエジプトへ帰るが、彼の遺書は甥のオクタヴィアヌスを後継者として指名していて、シ―ザリオンには言及さえなかったことも、彼女を傷つける。

 エジプトはナイルの恩恵を受けて一大穀倉地帯であり、経済的には豊かで、文化的にも成熟していたが、軍事力は弱く、ローマの動向に注意を払う必要があった。シーザー亡き後、側近であったアントニーと後継指名されたオクタヴィアヌスとが主導権を競い、アントニーから求められたこともあって、クレオパトラは彼に傾斜してゆく。体力と容姿に恵まれいかにも英雄然としたアントニーと、病弱ながら粘り強く危地を脱出してゆくオクタヴィアヌスとの対比が面白い。

 アントニーもシーザーと同じくエジプトに長く滞在し、二人は幸福な時間を過ごし、子供にも恵まれるが、やがて、オクタヴィアヌスと雌雄を決する海戦となり、クレオパトラもエジプトの船団を連れて参戦するものの、みじめに敗れてしまう。オクタヴィアヌスはその後シーザーを凌ぐほどの権力を手中におさめてゆく人物であり、所詮、アントニーの敵う相手ではなかった。

 この小説は、捕虜となったクレオパトラが毒によって自死するところで終っている。それはプトレマイオス王朝の最期でもあった。以後、エジプトもオクタヴィアヌスの支配下となるのである。

 クレオパトラはシーザーやアントニーというその時代を代表するほどの人物と恋をしたのであるが、一方でそれは、大国の女王として、外交戦術でもあったわけで、必要に応じて、まばゆいばかりの演出も試みている。また、子供を得てみれば、一人の母親として子の行く末を思う気持はごく普通に芽生えてくる。女性の生き方を生涯のテーマとした宮尾登美子だけに、そのあたりがしっかり書き込まれていて、長大な物語であるのに、ぐいぐいと引き込まれてしまった。

 読み終えてみれば、作品群のなかでこの『クレオパトラ』だけが異色ではないかという印象も、霧散してしまっている。巻末に膨大な参考文献リストが掲載されている通り、彼女は周到に準備してこの歴史小説に取り組んだわけで、これもまた、いかにも宮尾登美子らしい作品と言えるのではないだろうか。

  2015年3月5日  読了



 2003年1月発行の新潮文庫。宮尾登美子さんの訃報に接し、追悼の意味を込め、何かを読んでみたくなって、書棚からこの作品を選んできた。

 高知の芸妓子方屋「松崎」で揃って修業を積んだ澄子、民江、貞子、妙子の4人の生涯を、同じ年代で彼女たちと一緒に育った「松崎」の娘・悦子の視線を通して、連作風に描いた作品である。

 自分は芸妓遊びをしたこともなく、まして戦前から戦中、戦後にかけてのその世界を全く知らないのだが、子方屋というのは、少女を親元から預かり(実質は買い取り?)、三味線や謡い、踊りなどの芸を身につけさせて、やがて花柳界にデヴューさせ、そこから収入を得たということらしい。物語の現在時間では、彼女たちはすでに50歳を越えていて、悦子は東京で物書きをしているという設定であるから、この悦子が著者の分身であろうことは、容易に推察できるところである。

 『一章 小奴の澄子』で、澄子が大怪我をしたことから、民江、妙子、悦子の3人が見舞いに出かける相談ができたところが描かれ、その時点で、すでに貞子は死亡していることが紹介される。澄子は「松崎」に預けられた4人の中でも長女役であり、この章で「松崎」での暮らしが詳述されるので、全4章中最も長くなっている。

 澄子はいまは溝上という旦那を持ち、日蔭の身ではあっても落ち着いた暮らしを手に入れていたのだが、脊椎を損傷した怪我は重く、寝たきりである。そして、戦争を挟んでの彼女たちのこれまでの暮らしは、親からも徹底的に前借というかたちでむしり取られて、芸妓というよりはむしろ娼妓として身体を酷使するものであった。『二章 久千代の民江』でも、『三章 花勇の貞子』でも事情は同じで、親たちは娘から絞れるだけを絞って、遊興飲食に充てたりしている。彼女たちが大陸に渡らなければならなかったのも、親の無心が原因なのだ。と言って、彼女たちがそのことを悲観しているわけでもなく、自分が支えなければと、むしろ意気に感じてもいたようだ。現代とは時代が違うのか、それとも格差がひどくなっていると言われるいまもこうした親娘関係が続いているのだろうか?

 民江はいまも高知で気楽な立場として芸妓を続けている。彼女は必ずしも容貌に恵まれず、それが逆にいまの無事に繋がったのかも知れない。というのも、貞子は絶世の美女であり、彼女自身もそのことに矜持を抱いていたのだが、結局は早死にしなければならなかったからだ。

  『四章 染弥の妙子』だけは、やや事情が異なり、彼女は会社経営者の夫人としていまは落ち着いた暮らしをしている。ただし、玉の輿に乗ったというわけでもなく、夫とともに辛酸を舐めて現在に至ったのであり、上の3人とはまた異なる苦労をしてきたのである。物語の最後、悦子が河口湖畔の妙子の家を訪問するところで幕を閉じているのは象徴的であると思う。

 宮尾登美子は女性を中心に置いて物語を紡いできた作家だと思うし、この作品の主人公たちも家族を背負いつつ花柳界を荒波に揉まれながらも懸命に生き抜いたわけだが、いざこうして読書ノートを書こうと思っても、そこがまったくうまく書けない。これではこの作品の魅力を伝えられていないだろうが、読んでいる間は、けっこう引き込まれたと、申し添えておきたい。

  2015年2月21日  読了


 

 1998年10月発行の集英社文庫。

 記憶では、自分が最初に読んだ宮部みゆき作品のはずである。その後、少なからぬ量を読んできたのだから、この短編集には何らかの好感を得たはずなのに、すっかり忘れてしまったので、もう一度読んでみたくなった。

 (どうしてこんなに忘れるのだろう? 他の読書家の皆さんは、読んだ本をどれくらい覚えておいでなのだろう? 最近は、自分の記憶力の弱さに愛想が尽きる思いだ。年齢の所為だけではなく、要するに、根源的に頭が悪いのでしょうね。)

 再読してみて、実は、驚いている。宮部みゆきという作家は、初期のこの頃から、すでにいろんなジャンルの作品を描き分けていたからだ。ここではミステリー色は薄く、ごく普通の恋愛ものや家庭を題材にしたものがあり、そこに恐怖小説や、SF的な味付けをなされた作品も加わって、奇妙な風合の短篇集というおもむきなのである。読み直してみて、「あれ、こんなだったっけ?」と、ある種の戸惑いすら感じてしまった。

 標題作の『地下街の雨』は、恋人の淳史と地下鉄改札口前の小さな広場で待ち合わせ中の麻子が、見覚えのある手書きの一本物のネクタイを締めた男性を見かけたところから始まり、麻子と淳史が交際に到るまでの周囲の人物の介添が明らかになってゆくという物語である。地下街に雨が降るはずもないけれど、しかしその雨が地上との対比で象徴的に描かれているところに味がある。まずは無難な佳作という印象だ。

 『決して見えない』は、深夜のタクシー乗り場に立つ三宅悦郎と、その後に並ぶ老人との、無気味な一夜を描いている。二人はタクシーを諦めて歩き始めるのだが、その途中で、老人は「死に際を看取る黒い糸で結ばれた相手」だと悦郎に告げるのだ。恐怖に締め付けられそうになる作品である。

 『不文律』は、〈埠頭から死のダイビング 一家四人車ごと海中へ 無理心中の疑い〉という記事を巡って、周囲の人間のコメントを集めた内容となっている。そういう意味では、著者の傑作『理由』の先駆け的な作品なのかも知れない。だが、事故あるいは事件の核心に迫る証言はあまり見当たらず、各自が勝手なことを言い募っているという印象である。

 『混戦』は、いたずら電話の常習者のことから話が進んで、ついにはそうした人物に罰を与えるのだとして、受話器が彼を呑み込んでしまうという展開になる。SFなのかパニックものなのかわからないが、こういう作品は自分の肌には合わないようだ。

 『勝ち逃げ』は、厳格な教育者として独身を貫き通した勝子伯母の葬儀の前後を、佐山浩美の視点から描いている。恋愛経験さえないと思われてきた勝子宛の古いラブレターが郵便ポストに投函され、そこから一騒動があるのだが、どうやら勝子の人生は勝ち逃げだったのではないかというところに落ち着くのが面白い。

 『ムクロバラ』は、老刑事と警察の世話になったことのある橋場秀男との対話が中心になって進行し、「ムクロバラ」とは橋場の頭の中だけにある架空の凶悪犯ではないかと思うのだが、結末に至って、それすらも危うくなってしまった。つまり、この作品は自分にはまったくわからない。

 『さよなら、キリハラさん』は、いつの間にか家の中の物音が消えてしまった家庭のパニックを、いささかドタバタ喜劇風に描いている。そこへ、太陽系から派遣された「音波Gメン」というキリハラさんも現れて、混乱はいや増すという趣向だ。最後に種明しはされるけれど、こういう風合の作品も自分の好むところではなかった。

 以上7編の短い感想を綴ってみて、冒頭に書いた「何らかの好感を得たはず」という言葉も、すっかり虚しくなってしまったように思う。記憶違いであったのか、それとも年齢とともに好き嫌いが偏向してきたのか。不思議な感覚が残ってしまった。

 今度は著者の長編ミステリーを読み直してみようかしら。

  2015年2月5日  読了  

 


 2000年3月発行の集英社文庫。

 高倉健さんを偲んでというわけでもないが、もう一度この短篇集を読んでみたくなった。浅田次郎の直木賞受賞作でもあるのだから。

 全部で8編が収録されている。著者の「あとがきにかえて 奇蹟の一巻」に、処女短篇集である旨が書かれているけれど、再読して改めて思うのは、浅田次郎が読者の涙腺を刺激する手腕というものは、初期のこの頃からすでに職人技に達していたらしいということだ。一人称あり、複数の視点で描かれたものもあり、表現の手法はそれぞれ工夫を凝らされてバラエティに富んでいるのに、読み終えて思わず呟くのは、「うまいなァ!」の一言に集約されてしまうのである。

 標題作の『鉄道員(ぽっぽや)』は、上記高倉健さん主演で映画化されたこともあり、あまねく有名な作品であるが、乗客もほとんどいない北海道のローカル線の小駅を舞台に、不器用でひたすら真面目な老駅長の最期の一日を描いたものである。妻の記憶や、生まれて間もなく亡くした娘の様々に姿を変える幻影が涙を誘わずにはいない。

 『ラブレター』は、裏ビデオ屋の雇われ店長が、偽装結婚した相手の中国人女性から手紙をもらう話だが、何かといい加減な彼が、死んだ彼女の事後処理に出かけて示す言動は哀切極まりない。これもいつの間にか涙が滲んでくるのを押さえようがない。

 『角筈にて』は、46歳のエリート商社マンであった男が、プロジェクトの失敗の責任を取らされて本社営業部長の職からリオデジャネイロ支店長の閑職に左遷となる話だが、壮行会の夜、新宿の角筈で父親に似た男を見かけ、そこから回想が多重的に描かれることで、父と子の関係、妻との関係が次第に明らかになり、同時にサラリーマン生活の本質も挿入されて、やはり涙を禁じ得なくなってしまう。

 『うらぼんえ』は、夫の祖父が亡くなって、その新盆に故郷に帰った夫婦の物語だ。田舎の旧家である夫の家は、都会育ちの妻にはそれだけで居心地が悪いのだが、夫が浮気して子どもまで設けたことをすでに一族が知っていて、舅や義兄から離婚を迫られることになり、そこへ、すでに亡くなったはずの妻の祖父が現れるという意表を突く展開となるのだが、その語り口がツボを押さえているからか、ここでも泣かされてしまった。

 なお、『鉄道員』と『角筈にて』にも亡霊が現れたが、そこでは主人公だけに見えていたはずなのに、この『うらぼんえ』では、一周忌に集まった夫の家族と対話をする存在として現れ、「そんなばかな?」と思いつつも涙を滲ませているのだから、世話はない。

 『オリオン座からの招待状』も、京都西陣の古い映画館の閉館に伴う最終上映会への招待を受けた夫婦が、久しぶりに西陣に帰るという物語に、夫婦の間の隙間や、館主との幼い日の記憶を織り交ぜて、しみじみとさせられる。

 やがて70歳にもなろうという年老いた男が小説を読んで涙を浮かべているという図は、どう考えても見栄えのよいものではないけれど、恥ずかしいことに、上記5編でそうなってしまった。

 他に、『悪魔』『伽羅』『ろくでなしのサンタ』が収録されており、この3編では泣くことはなかったけれど、味わいの深さには遜色がない。ファッションメーカーの営業員と高級品を置く洋装店の女性店主とを描いた『伽羅』などは、虚実の駆引きもあって、自分としても好きな作品だ。

 この作品の単行本刊行時のキャッチ・コピーは「あなたに起こる やさしい奇蹟。」であったということだ。「『奇蹟』をモチーフとした短編を蒐めました、というほどの意味である。」と著者は述べているが、自分には、こうした魅力的な8編が一冊に纏められたことこそ、奇蹟に思えてしまう。素晴らしい作品集であると、絶賛を惜しまない。

 最後に、小説を読んで涙するのは恥ずかしいけれど、意外に「後味スッキリ!」という感じの爽やかな気分になれることを申し添えておきます。

  2015年2月1日  読了

 1977年3月初版発行、1996年12月改版発行の中公文庫。解説によると。そもそもの単行本は昭和3(1928)年8月万里閣書房刊とあるから、すでに90年余が経過していることになる。いまもなお版を重ねているのは、それだけ資料価値が高いからだろうか。それとも、読物として純粋に面白いからだろうか。自分がこの本を読むのは三度目のはずだが、思わず夢中になって読み進めてしまった。

 新選組の生い立ちから、近藤勇・土方歳三の死までを、関係者からの談話聞き取りや、残存する手紙などの採録により、ルポルタージュ風に纏めた作品と言えようか。一部に著者の創作が混入しているのではないかと疑義が出たこともあるようだが、大半は収集した史料の紹介であって、虚構とは思えない内容だと思う。もちろん、近藤や土方の遺族や、新選組の生き残りである永倉新八、あるいは途中で分派した御陵衛士の生存者である篠原泰之進などが語り残したなかにも、記憶間違いはあったやも知れず、この本に新選組の真実が凝縮しているとまでは言えないのかも知れないが、やはり、新選組を知りたい人には必読の書であろう。(司馬遼太郎も、新選組の小説化に際しては、この本の活用を著者に申し出て、快諾を得たと、どこかで読んだ記憶がある。)

 正直に言えば、前2回は、近藤勇の手紙など、漢字ばかりの史料を読み飛ばしたこともあったので、今回はなるべく丹念に読み解くことを心がけた。漢字ばかりとはいえ、漢文ではないので、一部に返り点を置くだけで、大半は理解可能であった。そして、その中から、お金の無心や、家族を気遣う言葉が滲んできて、生身の近藤勇が立ち現われてくるような臨場感を得た。新選組の京都における事績はどうしても殺伐としているので、そうした史料をじっくり読むことは、一種の潤いともなるわけで、この作品の印象をより豊かなものにしているようにも感じる。

 これも解説の受け売りになるが、著者の祖父は彰義隊崩れであり、著者の内部には、維新の動乱を藩閥政府から見ることに不満があって、維新史を捉え直してみたいという欲求があったのではないかということだ。実際、この本が生まれなかったら、勝てば官軍の歴史観のなかで、新選組も埋もれてしまったのかもしれないのである。

 「新選組は歴史の変転の中にむなしく潰え去ったグループにすぎない。そこに加わった人々は、それなりに志をたて、夢を抱き、必死の思いで白刃のもとをかいくぐたが、歴史の非情さは彼らの夢や志をふみにじってしまった。子母澤寛はその真実の姿を掘り起こし、再評価することによって、隊士たちの鎮魂と権利請求を願ったのではなかったか。」 

 長い引用になったが、尾崎秀樹氏の解説は当を得ていて、鋭いと思う。

 中公文庫からは、新選組三部作として、他に、『新選組遺聞』、『新選組物語』も出ている。引き続きそれらも読んでみたくなった。

   2015年1月27日  読了

 2002年5月発行の新潮文庫。著者の作品は、講談社文庫や幻冬舎文庫など、他にもたくさん出版されているが、わが家には新潮文庫が残っているだけだった。これで同文庫収録の全3作を再読したことになり、さらに読みたい気もするのだが、当面、新たに本を購入することを控えたいと思っているので、多分、夏坂健の著作を手にするのは、これが最後となるだろう。

 今回は、ゴルフに関する諸々の起源を探索するというよりは、珍しいゲームの展開や、面白おかしい試合の数々を、古い文献を読み漁って紹介しようという試みがなされており、それは、ゴルフ場やグッズを語る以上に、人間そのものを語ることに繋がっていて、ゴルフ好きにとっての面白さはまた格別である。歴史に名を残す有名プロあるいはアマも登場するが、むしろ、ゴルファーとしては名もなき人々が、功なり名を遂げた他分野での業績を打っ遣ってまでゴルフへの情熱・熱狂を示したり、ルールに謹厳で真摯なプレーぶりを体現したり、ちょっとした勘違いが大変な悲喜劇を生んだりして、読者をこのゲームの奥深さへと誘ってくれる。そこには、ちょっぴりおかしく、ちょっぴり感動的な秘話が満載であり、読物としての価値も高いと思う。

 例えば、『開闢以来の大事件』。我々はよく、「死んでもボールから目を離すな!」と教えられるが、それがゴルフにおいて本当に正しいのかどうか、疑問に思ったアマチュアの発言から大論争となり、ついには実証実験まで進んだという事例が語られている。プロやシングル級のアマたちは、必ずしもボールを凝視してスィングしているわけでなないらしいのだ。もちろんこれは、スィング軌道が安定しているプレーヤーの話であって、自分のようなヘボなゴルフ好きに当て嵌まることではないのだが、それにしても、「ボールを見てりゃ、いやでもヘッドアップになる。」などと書いてあると、ついニヤリとしてしまう。

 著者は、ゴルファーが一人前と呼ばれるようになるには、18ホールのうち平均6ホールでパーが取れるようになることが必要だと考えていたようだ。となると、自分などはまだまだ半人前である。と言って、この本に出てくる人々のように練習に精を出す意欲もなく、健康管理と言い訳してかなり軟弱なプレーを続けているのだから、著者から見れば、唾棄すべき部類のゴルフ好きなのだろう。ただ、それでもゴルフは楽しい。レベルが上がれば、もっと上質の楽しさを満喫できるであろうこともわかるし、だから上達したいとも思うのだが、ここでまた、「練習はいやだなー」と、堂々巡りに陥ってしまうのだ。

 わがホームコースは雪に弱く、せっかくの休日続きにもかかわらず、今年はまだプレーできていない。この本を読み終えて、自分も青空の下でフェアウェイを闊歩する姿が思い浮かぶ。一日も早くゴルフをしたいものだ。

  2015年1月12日  読了

 

 明けましておめでとうございます。

 当方は、元日は自分たち夫婦・息子夫婦・孫二人が集まり、お寿司を囲んで楽しい時間を過ごし、2日~4日は下呂温泉でのんびりしてきました。妻の希望で、このところ恒例となった正月旅行ですが、近いところなので、余った時間はついパチンコ店で費やすことになるのも毎年のことです。本来なら、本日5日は京都競馬場の「金杯」で今年の運勢を試すところなのに、今年は4日からの開催となり、上の理由で参加できませんでした。ただ、競馬は本日も開催されるので、「ウィンズ(場外馬券売り場)」へでも出かけてみようかと考えています。明日からは仕事で、いつもの生活に戻らなければなりません。今年も、よく遊び適度に働く一年になればと思います。読書のペースが落ち、更新もままならない最近ですが、今年も当ブログをよろしくお願いします。 


 さて、本作品は1999年1月発行の講談社学術文庫。「学術文庫」などは、本来の自分の読書の範疇ではないのだけれど、古代史に興味を抱いていたころは、こうした本も背伸びをして読んでいた。しかし、読んだことは覚えているけれど、その内容についてはきれいさっぱり忘れてしまっているというのが本当のところだ。ちょっぴり口惜しいので、もう一度読んでみたくなった。

 「第一部 春にかすめる」「第二部 花の散るのみ」「第三部 春し暮れなば」の章立てのもと、長短さまざまな全23篇の学術エッセイが収録されている。巻末の初出一覧を見ても、新聞の文化欄に掲載されたらしい短いものから、総合誌あるいは歴史雑誌に発表されたらしい比較的ボリュームのあるものまで、実に変化に富んでいる。平安の中期、紫式部や清少納言が活躍した頃から、鎌倉末期の実朝の死まで、概ね年代順に並べられているようだが、これは例外もあって、ゆるやかだと言うべきだろう。

 自分としては、数ページの掌編と言えそうなものは印象が薄く、『師輔なる人物』『紫女と清女』『白河法皇』『実朝の首』など、比較的紙数の多いものの方が、読み応えもあって、頭に入るような気がした。著者は平安時代の官女の経済面にも深く関心を寄せているらしく、そこに着目するよう、若い研究者へのメッセージも折に触れて伝えているようだ。もう一つは、師輔や白河法皇、それに頼長など、歴史小説を読んでイメージしてきたものとは違う人物像が浮かんでくるような気がするのは、ちょっとした発見であった。

 ただ、巻末に瀬戸内寂聴氏が『面白くてやめられない名著』と題して解説代わりの一文を寄せているのだが、自分としては、こうした作品を面白がるほどの学識・知識を持ち合わせない悲しさと言うべきか、必ずしも楽しい読書とは言い難かったように思う。平易に書かれたものを集めてあるとは推測するけれど、研究成果を発表するこうした文章は、読者を楽しませようとする小説などとはおのずから異なるからである。

 タイトルの『平安の春』は、正月第一回目の更新にはふさわしいだろうと、これは自画自賛です。一方で、背伸びをした読書はやはり辛いところもあったと、正直に申し添えたいと思います。余暇を楽しむ目的で読むのなら、そういうジャンルを選ぶ方が賢明のような気がしました。

  2015年1月5日  読了

 




 2002年6月発行の講談社文庫。桐野夏生は、この作品以前にすでに江戸川乱歩賞を受賞し、注目されてもいたのだろうが、大ブレイクを果たしたのはこの『OUT』であっただろう記憶している。初読のとき、自分も衝撃を受けた一人だ。10年余を経て、もう一度読み直したくなった。
 改めて、この作品の迫力に呑み込まれた思いがする。背筋が凍るというか、胃袋を鷲掴みにされそうな感覚というか、再読であるから大筋は承知しているはずなのに、その先を読むのが無気味であって、しかしどうなることかと早く読み進めたい欲求も募って、久しぶりに小説世界の虜になった気がする。上に書いた衝撃という言葉も、決して誇張とは言えないだろう。
 物語は当初、コンビニ弁当を夜通し製造する工場に勤務する4人の主婦を紹介する形で進行してゆく。香取雅子、城之内邦子、吾妻ヨシエ、山本弥生。昼夜が逆転する深夜パートは時給は高いものの、次々と流れるラインに立ち通しで追われる過酷な労働で、誰もが望むものではない。彼女たちはそれぞれ家庭に悩みを抱え、ここへ吹き溜まってきた者同士だ。彼女たちは工場内でチームを組むことが多く、そういう意味での仲間意識がある。
 物語が動くのは、弥生の夫がクラブの女性に惹かれ、さらには違法なバカラ賭博にのめり込んで、夫婦の預金を遣い果たしたことで、カッとなった弥生が首を絞めて殺してしまったことからだ。弥生は雅子にその善後策について相談し、雅子はその処理を引き受けてしまう。雅子はヨシエに協力を頼み、自宅の風呂でその死体を解体し、生ゴミとして分散して放棄しようとするのだ。その過程で邦子にその作業を知られてしまい、彼女にも手伝わせることで、4人は暗い秘密を共有することになってゆくのである。
 浪費癖から借金まみれの邦子は、無分別でもあって、自分が受け持ったゴミ袋を公園の籠に捨ててしまい、そこからバラバラ死体が表面化してくる。弥生は夫の失踪を警察に届けていたが、 死体が夫のものと特定されれば、同情と同時に疑惑もかけれれてくる。刑事の追及が始まり、しかし弥生は雅子のアドバイスを得て、気の毒な人妻を巧みに演じてゆく。
 警察の捜査は意外な方向へ進展し、弥生の夫が通っていたクラブとバカラ賭博場の経営者である佐竹光義が逮捕される。佐竹は過去に殺人の犯罪歴があり、それを隠して、違法性が高いもののひとまずは経営者として落ち着いた暮らしを得ていたのだが、釈放されたとき、それらは雲散霧消してしまっていた。佐竹はバラバラ死体の事件の真相を知り、自分を陥れた人物に復讐しようと、突然姿を隠し、地下に潜ってしまう。
 一方、計画性がなく無思慮な邦子は、消費者金融の看板を掲げた十文字彬に借金の棒引きを条件にバラバラ死体の秘密を明かしてしまう。十文字はそれを新たな不法ビジネスのネタとして、死体の秘密処理を請負ってくる。雅子とヨシエは、再び解体作業を引き受けるのだ。
 そして物語の後半は、4人の主婦と十文字に対する佐竹の陰湿な圧迫が息詰まる展開で描かれてゆく。佐竹は興信所を利用し、入念に彼らを調査したうえで、ジワリと攻勢に転じてくるのだ。まず邦子が襲われ、弥生は夫の死亡保険金をそっくり奪われ、ついでその矛先が雅子や十文字にも向けられてくる。雅子は恐怖心と戦いながらも、対抗策も打ってゆく。だが、ついに雅子も佐竹に襲われ、廃工場へと連れ込まれてしまう。佐竹の異常な性への拘りや壊れた人格が表面に出て、雅子は何度も犯され、刃物で刺される直前までゆくのだ。
 雅子も犯罪者であるのに、応援したくなってしまうのは何故だろう。それ以前に、家庭的に必ずしも恵まれなかったとはいえ、ごく普通の主婦であった彼女たちが、ある一線を越えれば、ここまでできてしまうという驚き。そして、解説の松浦理映子氏が「本作には日本における〈階級〉が描かれている」と指摘するのも、全く正鵠を射ているように思う。格差が拡大されていると指摘される最近の社会だけに、この作品のインパクトはむしろ増しているのではないだろうか。
 「クライム・ノベルの金字塔」というカバーの文字も、素直に頷けます。桐野夏生の鬼気迫る筆致も冴え渡っていて、どなたにもお薦めできる一作だと確信しています。
  2014年12月28日  読了

 1998年5月発行の新潮文庫。つい先日読んだ『ゴルファーを笑え!』に続く夏坂健のゴルフエッセイである。

 まず、目次の立て方に注目したい。お洒落で、ここを開いただけでワクワクしてくる。

  第1打 tea shot 〈創意〉

  第2打 second shot 〈機智〉

  第3打 approach 〈極意〉

  第4打 putting 〈至福〉

 そして、〈創意〉〈機智〉〈極意〉〈至福〉のそれぞれから連想されるゴルフのあれこれが整然と展開されてゆくのだ。これもまた、前作に続いて、ゴルフを愛する者には堪らない楽しさに充ちている。

 例えば「第1打」では、ゴルフシューズやキャディバッグの起源を探究したり、ゴルフをしたい執念で思いがけない場所にコースを作り上げてゆく男たちの足跡を追うなど、ゴルフ草創期を関心の赴くままに調査して披露してくれる。特にアメリカはイギリスからの移民からスタートしており、イギリス人は大のゴルフ好きだから、少し落ち着けば、すぐにコースを欲しくなるわけで、話題も豊富なようだ。先人の血の滲む苦労が現存の名コースに繋がっているケースもあり、また、我々が普通に使用している道具にもそれぞれの歴史があるわけで、頭が下がる思いもする。

 また、「第4打」では、タイトルこそ〈至福〉であるけれど、ゴルフが生涯の伴侶になりうることを反映して、病魔に冒された友人との最後のラウンドなど、涙を誘う話題も挿入されている。ゴルフはスポーツであり、1打でも少なくホールアウトすることを目標とするわけだが、しかし、スコアだけではない何物かがこのゲームには濃密にあるわけで、そのエッセンスが絶妙の文章により抽出されてゆくのだ。ゴルフの奥深さは計り知れないのであって、ますます好きになってゆきそうである。

 ここで少し自分のゴルフを語るなら、オフィシャルハンデは20、ということはパー72のコースなら92で回ってパープレイなのだが、そんな好スコアで終るのは年に数回、大半は100を行ったり来たりが実情のヘボゴルファーだ。決して名門ではない、むしろ三流と呼ばれそうなクラブをホ―ムコースとし、ほぼ100%そこでプレーしている。各地の名コースを訪ねたい気持もあるが、費用もかかるし、一緒に楽しむ友人との関係もあり、自宅から車で約30分の往復を繰り返している。上手くなるためには練習が必要だとは承知しているものの、この年齢で上手くなれるはずもないと言い訳して、打球場へ行ったことがない。この本にも、上昇志向のゴルファーとそうでないタイプとが書かれているが、自分などは悪い方の典型である。しかし、それでもなおゴルフは面白いのだから、困ったものだ。

 岐阜市には早くも積雪があり、わがホームコースはこの土・日曜日がクローズなってしまった。この時期だからすぐ溶けるとは思うが、今週もプレイできるかどうか、心配しているところである。

 今回は、読書の感想よりも、雑談になってしまいました。ご容赦ください。ただ、ゴルフ好きの方には、この本が絶賛お薦めであることを、強調しておきたいと思います。

  2014年12月7日  読了

 

 1980年12月発行の新潮文庫。
 先日読み直した『馬車は走る』が、人に密着したルポルタージュであったのに対し、この『人の砂漠』は、風土を探索し社会の病巣を明らかにしようという試みではないかと思われる。まだ20歳代後半であった沢木耕太郎が、軽いフットワークを駆使して鋭い問題意識のもとに体験取材を繰り返していて、ここで扱われている諸テーマは、およそ40年ほど前に執筆されたものであるにも拘わらず、今日ただいまも生き続けているものばかりだ。再読してみて、著者のジャーナリスティックな感性に改めて凄味を感じてしまった。

 全8篇が扱うテーマを、やや乱暴ではあるが、短絡的に列記してみよう。

 『おばあさんが死んだ』は、社会から孤絶して死んだ浜松市の老女を取材した記録である。しかも彼女は、ミイラ化した実兄の死体と同居していたのである。老人の孤独死はむしろ今日的な問題であろうけれど、著者はすでにここでその背景を綿密に考証しようとしている。

 『棄てられた女たちのユートピア』は、何らかの障害を持つ元売春婦たちの養護施設「かにた婦人の村」への体験取材のリポートである。この施設の現在を自分は知らないけれど、元売春婦と限定するまでもなく、現在では棄てられた老人たちが各地で群居している。ここで語られる養護施設は必ずしも今日の老人介護施設とは直結しないのだが、いずれ近いうちにお世話になるであろう自分としては、つい連想せざるを得ない。

 『見えない共和国』は日本の西の果て・与那国島を、『ロシアを望む岬』は逆に東の果て・納沙布岬をそれぞれ滞在ルポしたものである。これも対中国関係や北方領土問題で極めて今日的なテーマであるわけだが、現地の人々にとっては、異国が肉眼で見える近さにあるわけで、古くからの交流もあって、我々内地に住む人間とは当然に捉え方が異なる。執筆から年月を経たとはいえ、おそらくはいまもその状況は変わらないのではないだろうか。そのあたり、考えさせられる問題を含んでいるように思う。

 なお、これを読んだ直後に、西(中国)の脅威に備えて自衛隊が与那国島にレーダー基地を設置し常駐するというニュースが流れて、個人的にはそのタイミングに驚いた。

 『屑の世界』は、江戸川の屑の集積場、いわゆる「仕切場」での労働体験報告である。屑屋が集めてきたり、企業から排出されてきたあらゆるものを、使える物、再生できる物、ゴミとして燃やされる物へと分別し、次の業者に流してゆく作業だ。こうした場所へも飛びこむ著者の若さが羨ましくもあるし、そこから印象的なシーンを掬う感性が素晴らしい。

 『鼠たちの祭』は、大坂の穀物取引所で相場を張った男たちの毀誉変貌を取材している。大金を得たかと思えば、次には総てを失うという世界。著者は伝説の相場師たちへの接近を試み、彼らの生き様を炙り出してゆく。

 『不敬列伝』は、戦後のわが国の法規では消滅したはずの「不敬罪」が本当に消滅しているのかどうかを追及したルポルタージュである。一度天皇家への不敬行為を犯せば、警察当局から生涯に亘ってマークされるという現実を、不敬事件に即して様々にアプローチしている。おそらくは天皇家の意思とは関係なく、しかしそこには国家権力の闇が介在しているようで、無気味な一篇だ。

 『鏡の調書』は、岡山に住み着いて詐欺を重ねた老女の行動を物語風に再現している。結果的に、周辺の人たちから返す当てのないお金を借り集めたわけで、被害者も多数にのぼったのだが、憎めないのが不思議である。

 もう一度繰り返すことになってしまうが、著者の着眼点の確かさと、若さゆえの体力やフットワークがこれらの好ルポルタージュを産んだのであろう。一般的に、ルポルタージュは時代の変遷ともにと古色を帯びてくるものだと思うが、それを感じさせないところが何よりも凄い。

 再読できてよかったと思う。

  2014年11月30日  読了