山本周五郎 『彦左衛門外記』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 1981年9月発行の新潮文庫。と言うものの、自分は愛蔵の新潮社版「山本周五郎全集」の第13巻で読んだ。

 つい2~3日前、宮城谷昌光『新三河物語 』を読了して、その関連でこの作品を思い出したのだが、書棚から抜き出してページを開いてみたら、つい夢中になってしまって、一日で読み終えてしまった。この小説はてっぺん面白い。(「てっぺん」はこの作品における大久保彦左衛門の口癖であり、最上級の意味である。)

 およそ25年ほど前(というのは全集の発刊時である)、確かに読んだはずなのだが、驚くほどきれいに忘れていた。この作品、タイトルに彦左衛門の名があるけれど、彼は重要な脇役であって、主人公は甥の五橋数馬という若者である。数馬は並々ならぬ野心家であり、七百石の旗本の養子に納まっていたいとは思わず、その野心を満たすために、戦国時代からの生き残りである彦左衛門を利用しようと考える。彦左衛門は晩年を朝顔や菊を愛でて静かに過ごしていたのであるが、数馬は彦左衛門の戦記を書き換え、神君家康公の筆跡を真似て意見番のお墨付きを偽作し、次第に彦左衛門を煽動してゆくのだ。大御所秀忠がそのお墨付きに添書きをしたことで、彦左衛門は誰もが認める天下の意見番となり、本人もすっかりその気になってゆくのだが、それはいわば数馬の手になる作り物であったのだ。

 断っておかなければならないが、この作品は歴史小説ではなく、周五郎の重要な一つを占める滑稽小説なのである。そしてもちろん、滑稽小説だから品位が落ちるということにはならない。読者の笑いを誘うために、ときには作者が顔を出し、微妙なくすぐりをいれたりして、要するに、充実期の作家が余裕を持って物語を進め、読者サービスに徹しているのだ。これが面白くないはずはないのである。

 数馬は宇都宮十一万石の奥平家のちづか姫に恋をする。上屋敷に忍びこみ、逢瀬を重ねることには成功するが、奥平家には内紛があるらしく、それに巻き込まれてしまう。捉われの身となって、手足を縛られたまま、武器庫のようなところへ数日間閉じ込められたりもする。危うく、白束組を束ねる水野十郎左衛門に救出されるのであるが。

 クライマックスは彦左衛門と数馬が奥平家の当主・大膳大夫昌家と対決するシーンであるが、実情は掛合い漫才のごとき会話の応酬であって、読者としては笑いが止まらない。周五郎が腕によりをかけて遊んでいる。何しろ、大膳大夫はちづか姫が数馬に夢中であることも、家中に内紛が進行していたことも、何も知らずにこの場に臨んでいるのである。さすがの大名も、彦左衛門の鋭い舌鋒に目を白黒せざるを得ないのである。

 数馬は見事にちづか姫の婿となり、奥平家から一万五千石を分家されて当主となった。それはそれでハッピーエンドであるわけだが、一方で彦左衛門はますます意気軒高である。最後の、「おれもとんだものを作っちまったもんだ」という数馬の太息をつきながらの言葉に、読者はもう一度ニヤリとすることになるだろう。

 まことに突拍子もない、人を喰った作品であるが、文句なしに面白い。こういう山本周五郎作品もありだと思う。

  2011年5月4日  読了