山本周五郎 『季節のない街』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 1970年4月発行の新潮文庫。と、表紙写真を拝借したが、自分は書棚の新潮社版「山本周五郎全集」の第14巻で読んだ。

 この『季節のない街』は、著者自身が「あとがき」で述べているように、都会の『青べか物語 』といってもいいほど内容には共通点が多い。長短さまざまの15の挿話が用意され、極貧者が寄り集まって自然発生的にできた「街」の、個性豊かな住民を描いてゆく。彼らは経済的にも感情的にも、自分たちの「街」意外の人間とは交渉を持とうとせず、団結して他に当たるけれども、個別的には孤独であり、煩瑣的な自尊心を固持しているのが常のようだ。そこでは、いつもぎりぎりの生活に追われ、虚飾で人の眼をくらましたり自分を偽ったりする暇も金もなく、ありのままの自分をさらけ出している。もっとも人間らしい人間性が発露されているのだ。そしてこの「街」にも、一時的な住民と永住者とが存在し、多種多様なトラブルをおこす原因となっていて、ささやかではあるが当人同士では深刻な悲喜劇が醸し出される。著者はそれらの素材を丹念にノートし、総ざらえという感じで作品化した。この過程がすでに『青べか物語』と共通であり、作中人物に限りない愛着が注がれているのも同様である。

 だが、好き嫌いで言うならば、自分は『青べか物語』に軍配を上げたい。周知のように、『青べか物語』の舞台は浦安であり、海があり川があり、漁師がいれば船宿もあり、自然に囲まれた土着性が描きこまれていたように思う。そういう点では、この『季節のない街』で描かれるのは都会の片隅という架空の場所であって、登場人物の職業を含めた個性や、「街」の情景が、いささか平板ではないかと思うのだ。その結果、それぞれの挿話の印象が薄められてしまったように感じる。

 また、『青べか物語』は、著者の分身と思われる「蒸気河岸の先生」が「私」という一人称で見聞を記すというスタイルであったが、こちらはそれぞれの住民を三人称で描いた連作集となっていて、それによる味わいの違いも歴然としている。前者のほうが、ユーモアやペーソスに満ち溢れていたように思うのだ。

 この「街」では、最終章で語られる「たんばさん」が住民の支柱となっているようである。多くの登場人物が一過性であるのに対し、たんば老人はときどき顔を出し、住民のトラブルを煙に巻くように収束したり、金銭面の困窮を控え目に支援したりしている。と言って、過去を詮索しないこの「街」では、たんば老人も謎の人物の一人に過ぎないのだが、彼が登場するとき、この物語は一段と光彩を放つようである。

 もう一つ、これは『青べか物語』でも感じたことだが、「街」の住民たちの、とりわけ主婦たちの性に対する大らかさは、一つのパワーとさえなっている。水道端の会話が闊達であるだけでなく、ときに行動においても奔放なのだ。これも、虚飾を剥がした人間の本質なのかも知れない。少しもエロチックではなく、ただただ圧倒されるのみである。

 どうしても『青べか物語』との関連で読後感を記してしまったが、周五郎は短編の名手でもあって、読み始めればそれぞれが面白く、夢中になれるのはもちろんである。さらには、自分の幼少年時は戦後の混乱期であって、ここに再現されるような、極貧の暮らしを隣近所で融通し合って乗り切ってきたという記憶もあって、懐かしさも感じる。こういう暮らしに戻れるならば、原子力発電に頼る必要もないのだろうが。

 なお、『季節のない街』は黒沢明監督により『どですかでん』のタイトルで映画化されたことも、申し添えておきたい。

  2011年3月21日  読了