藤沢周平 『無用の隠密 未刊行初期短篇』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2009年9月発行の文春文庫。藤沢周平が「オール読物新人賞」を受賞して作家デビューを果たす以前に、「読切劇場」「忍者読切小説」「忍者小説集」といったマイナーな雑誌に発表していた作品を、発表年月順に収録した短編集である。当時無名の彼は、「日本加工食品新聞」に勤務しながら、コツコツと書いていたわけで、その後、一念発起して新人賞に応募するようになった。以後の目覚ましい活躍は我々のよく知るところであり、一時代を画した作家であることは間違いない。そして、彼の死後、娘さんや友人の奔走・努力により、これら作品が再発掘され、長い眠りから覚めたということだ。作家藤沢周平の足跡を知る上で貴重な15篇であると言えよう。

 最初の2篇、ということは残存する最も古い作品ということだろうが、さすがに荒削りな印象である。『暗闘風の陣』『如月伊十郎』と、登場人物も共通で、キリシタン狩りを下敷きにしているのも同様であるが、ややストーリーの運びが強引であり、書き手の独りよがりという感じなのだ。

 だが、3篇目の『木地師宗吉』からは、慣れ親しんだ藤沢周平の世界が広がっている。一体に、この作品集における彼は、武家物よりも、こうした職人を描いたり、あるいは次の『霧の壁』のような訳ありのやくざ者を題材とした市井物のほうに、分があるような気がする。しっとりした読後感が心地よいのだ。

 『老彫刻家の死』は、藤沢周平には珍しい海外に題材を得た作品である。エジプト全土に名を知られた彫刻家が、年老いて、弟子にその立場を追い越されてゆく様子を、静かに描いている。そう言えば、この時期の彼は習作を意識していたのか、多岐に亘る職業の男たちを描いているのも興味深い。人形師、大工、浮世絵師(これは葛飾北斎の晩年を描いている)、渡世人、いかさま博打打ち、青物商いなど、職人は職人らしく、商人は商人らしく、しっかりと描き分けられていると思うのだ。そこへ、戦国武将と忍者、隠密など、武家社会を扱った作品にも陰影を持たせていて、単純なヒーローが描かれることもない。藤沢周平の多様性を知るだけでも、この作品集は価値があると思われる。

 後半にゆくほど作者が小説作りに手慣れてきた様子がよくわかるのも面白い。先に武家物より市井物に分があると記したけれど、『上意討』、『無用の隠密』あたりになると、ともに隠密の炙り出しが主題となっていて、そこへ至る過程に工夫が凝らされているので、非常に完成された作品となっている。ここには新人作家らしからぬ充実さえ窺えるような気がして、どうしてどうして、武家物も立派なものである。

 解説に、「後年さらに円熟を加える勁さ巧みさ優しさ清冽さと、わずかな稚拙さを見てとることが出来る」とあり、これがこの作品集を最も適切に言い得ている言葉だと思うけれど、稚拙さは気にならない程度のほんのわずかであると、言い添えておきたい。

  2009年10月12日  読了