福田恒存 『人間・この劇的なるもの』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 

 新潮文庫2月発行の復刻版。単行本初出が1956年6月、新潮文庫編入が1960年8月ということで、およそ半世紀の風雪に耐えてきた作品ということになる。

 著者はシェークスピアの翻訳や演劇でよく知られているのだが、評論でも多彩な活躍をした。実は自分も、10~20代の頃、著者の評論をよく読んだものだ。特に好きだったのは『私の国語教室 』で、これは旧仮名を擁護する立場で書かれていて、自分のような新仮名しか使えない者が愛読するのは自己矛盾のようなのだが、明解な論旨に惹かれ、旧仮名に憧れを抱いたことを思い出す。一方で、著者は論争好きで、誰彼となく噛み付いて論争を仕掛けていたとも記憶していて、雑誌上で展開されるその論争を野次馬的に楽しんでいたという部分もあったようだ。

 で、自分の若かった頃の感覚のようなものを確かめたくて本書を手にしたのだが、正直なところ、よくわからなかった。自分の頭が硬化してこうした評論を受け入れないのかも知れないし、若い頃もよくわからなかったのに、わかったふりをして満足していたのかも知れない。「程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。また演じてもいる。」とこの本にも書かれていて、自分も下手な芝居を演じていたのかも知れない。

 人は自由とか個性とかをよく語るが、本当に求めるべきはそういうことではない。個人は全体の一員であり、全体との関わりにおいて果たすべき役割を知り、それを「演戯」することが重要なのだ。「演戯」とは、演じて楽しむことであり、役割の必然性を実感できるなら、それが生きがいである。と、思い切って要点を纏めればそういうことだと思うけれど、長編評論を短絡的に括ってしまうのも不安である。著者が伝えたかった眼目が果たしてそれだったかどうかも、実は自信がない。

 この年になって生き方の指針を仰いでも仕方がないような気もするのだが、その半面で、各ページに現れるいかにも意味ありげなフレーズに立ち止まって考えを巡らすのも、読書の楽しみの一つであるとも思う。たとえそれが「下手な考え休むに似たり」であっても、雪に閉じ込められた休日の過ごし方としては、悪くなかったと思うのである。

 2008年2月12日  読了