山本周五郎 『柳橋物語 むかしも今も』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 久しぶりに山本周五郎作品を読みたくなって、新潮文庫のなかからこの1冊を手にした。改版されて、文字が大きくなっているのがありがたい。山本周五郎については、1981年から刊行された新潮社版の全集30巻を通読したので、その後に発見されたもの以外は一通り読んだつもりであるのだが、どういう訳か、周期的に何度でも読みたくなるのだ。

 『柳橋物語』は、幸太と庄吉の二人から愛されたおせんの数奇な運命の物語。関西へ大工として稼ぎに出る庄吉と言い交わし、ひたすら彼が帰る日を待つおせんだが、祖父の死、大地震と大火事と続く過酷な暮らしのなかで、幸太がひたむきな愛を寄せる。そして、その幸太は、大火事の中でおせんを救い、自らは命を落としてしまった。その火事の日、赤ん坊を救ったことが回りの誤解を生み、ようやく江戸へ戻った庄吉もおせんの純潔を信じない。貧しい暮らしの中で、中傷に苦しみながらも、それでも助けてくれる人もあって、おせんは次第に逞しく生きてゆこうとする。幸太こそ本当に自分を愛してくれたのだと気づき、毅然とした態度で庄吉に対する最後のシーンが、実に清々しい。

 『むかしも今も』は、愚鈍だが実直な直吉の物語。勤め先の指物屋の娘・まきを子守したことから始まり、彼女が成長後もどこまでも支えてゆこうとする。まきは男前で機転のきく清次を婿に迎えるが、清次は博打に入れあげ店の信用を落として、姿を隠してしまう。地震で店は潰れ、まきは失明。貧苦のなかでもまきを支え続ける直吉は、口下手で不器用ではあるけれど、一直線で美しい。この物語も、最後に清次が訪ねてきて、結局は彼を追い返し、直吉とまきが結ばれることを暗示して終っていて、味わい深い幕切れである。

 山本周五郎の下町人情物はやはり素晴らしい。特に、幸太と庄吉、直吉と清次など、二人の男の対比と、その間で揺れ動く女の情感が濃密に描かれてゆくところが堪らない。それに、地震や火事の描写の圧倒的な迫力はどうだろう。読者に訴えてくる質量が凡百の小説とは全然違うのだ。

  2005年11月13日 読了