高村 光太郎
智恵子抄


いやなんです

あなたのいつてしまふのが─



花よりさきに実のなるやうな

種子(たね)よりさきに芽の出るやうな

夏から春のすぐ来るやうな

そんな理窟に合はない不自然を

どうかしないでゐて下さい

型のやうな旦那さまと

まるい字をかくそのあなたと

かう考へてさへなぜか私は泣かれます

小鳥のやうに臆病で

大風のやうにわがままな

あなたがお嫁にゆくなんて



いやなんです

あなたのいってしまふのが─

(・・・後略・・・)

(引用は全て新潮文庫 高村光太郎著 「智恵子抄」より抜粋)



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こんなラブレターをもらったら、智恵子でなくても突っ走ります。たぶん。



日本の過去、

封建時代というのは意外に男女関係がぐちゃぐちゃだったような気がします。



姦通は死罪、なんていう法律があったのも、そうでもしなければ社会がおかしくなってしまうから・・・っていうこともあったのかもしれません。



世間の厳しい目があればこそ・・・

それを跳ね除けるだけの強さがなくては、恋は貫けなかったのかも・・・



と、このあいだ『キッスキッスキッス』という明治・大正あたりのラブレターを題材にした本を読んでいて思ったわけなのですが・・・



大多数の人が若くして親の決めた相手、または手近な相手と結婚しなくてはいけなかったその頃。

夜祭が集団見合いの場であったという説も聞いたことがありますが、交通手段が徒歩と駕籠と馬だった時代、集まる範囲はそれほど広いわけではないですよね?



結婚後に運命の相手(と思われる人)に出会ってしまう場合も多々あったのかもしれません。



そして不倫・・・

わりと普通のことであったのかも・・・



そんな中で異彩を放っているのがこの二人。



高村光太郎・智恵子夫妻です。



生涯を貫く純愛といっていいのでしょう。



冒頭の詩は光太郎が智恵子に宛てた、まさしくラブレターです。

福島の実家に帰って親の決めた相手との縁談を進めていた智恵子。

(智恵子の実家は裕福な造り酒屋でした)

そんな中で、光太郎はこの詩を雑誌に発表します。



ご存知の方も多いと思いますが、智恵子は画家、光太郎は彫刻家であり詩人でした。

ぱんだが中学生の頃には、高村光太郎の詩は国語の教科書にも載っていました。


「ぼくの前に道はない、ぼくの後ろに道はできる」

という『道程』という詩もたしか光太郎作だったと思います。



そしてもう一作。

「レモン哀歌」も国語の教科書で読んだのが最初でした。



そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズ色の香気が立つ

(・・・・・・・以下略・・・)



智恵子は精神を病んだ後、粟粒性肺結核(ぞくりゅうせいはいけっかく)という病気で亡くなっています。



ぱんだの手元にある、既に変色した文庫版の『智恵子抄』には、智恵子の死後、光太郎が書いた手記も掲載されています。



24年間の結婚生活。


その中で、智恵子がどんなに大切な存在であったか、どんなに純粋であったかを語っています。



都会に馴染めなかった智恵子。

芸術に翻弄された智恵子。

光太郎にグロキシニアの花を贈った智恵子。

この世にいなくなってなお、その存在は光太郎の傍らにあったといいます。



晩年、光太郎は都会を離れ、十和田湖畔の山荘で「乙女の像」を作成します。

当時光太郎夫妻と交流のあった草野心平さんは、その像の顔は智恵子にそっくりであると言っています。



昭和24年10月、


(・・・前略・・・)

智恵子の裸形をこの世にのこして

わたくしはやがて天然の素中に帰らう。



「乙女の像」制作中の光太郎は智恵子を恋う詩を書きます。



そして昭和27年、十和田湖畔での仕事を終えて東京に戻った光太郎は次のように智恵子に呼びかけるのでした。



(・・・・・・前略・・・)

あなたのきらひな東京が

わたくしもきらひになりました。

仕事が出来たらすぐ山に帰りませう、

あの清潔なモラルの天地で

も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。



が、山に帰ることのないまま、1956年(昭和31年)4月2日

光太郎は智恵子のもとへ、

天然の素中へと帰っていったのでした。