ミウラデザイン

ミウラデザイン

ミウラデザインです。
聖書に示されている神さまがつくられた美しいものとか楽しいものとかおいしいものとかを、描いたりとかします。

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お世話になっております。

この時期、私はいつも思い出すことがございます。
思い出す人がいると申しますか、思い出すようにしていると申しましょうか。


幼稚園の年長組の頃、春から通う小学校に入学予定の私たち5歳児が、準備のためにそこに一堂に会する日がありました。
その日の子どもたちの並び順は「お誕生日順」で、8月30日生まれの私は母から
「あなたはきっと8月グループの一番後ろね。」と言われて母と別れ、係の先生の誘導に従って列に並びました。
ところが私は8月グループの最後尾ではなく、後ろに一人8月31日生まれの女の子が配置されました。
私が8月グループを締めくくり統括するための(※別に統括はしません)人材かと思っていたにもかかわらず、まさかの31日生まれの彼女がそこに堂々と並んでいるのです。
お誕生日は私が一日お姉さんですが、身長は彼女の方が高かったと思います。


春になり、晴れて入学式の日がやって来ました。
あの日唯一私がその存在をはっきりと認識した彼女とは同じクラスになりました。
入学したて、ピカピカの一年生の並び順は出席番号順。
あの日はお互い知らなかった名前は五十音順で隣どうしで、出席番号は前後となりました。今度は彼女が前、私が後ろでございます。

明るくて元気で積極的で、学校で泣いたことがない彼女に(一年生は何かと泣いてしまうことがあり、小学生になったのに友達の前で泣いてしまうのは恥ずかしいことという風潮があったように記憶しております)、
私は彼女に尊敬にも似た感覚を持っていたように思います。
お誕生日でも出席番号でも隣どうしで、私としては勝手に一種の親近感を抱いておりました。


季節は変わり、すっかり学校にも慣れた一年生の冬、それまで一度も学校を休んだことがなかった彼女が、初めて学校をお休みしました(学校を一度も休まないというのも、尊敬の対象でした)。
その日の朝、出席を取りながら担任の先生が「彼女がお休みするのは珍しいですねぇ。」と口にしたのを覚えています。

それから数日続けて彼女は学校を欠席しました。いつも彼女のいる席が連日空いているのには違和感がありました。

今と同じ、冷たく澄んだ空気の季節です。

週末になり土曜日の昼間、自宅の電話が鳴り母が何かの知らせを受け取っているのが分かりました。
しばらくの電話のあと、母は何も言わずに自分の部屋に倒れ込み、床に顔をつけて抑え切れない声を上げながら泣いていました。
子どもの前で泣くことのない母が泣く姿は、7歳の私の心を少し不安にさせました。

母がその電話で聞いた知らせは、
それまで学校を休んだこともなかった彼女の体調が悪化し、
亡くなったとの知らせでした。

ちょうど、この時期でした。

何もなければ小学校、中学校、高校と同じ学校で過ごし、一緒に卒業するはずの友人でした。
小中高それぞれの卒業の頃や、転校していく友人を送り出す時など、事あるごとに、私は彼女のことを思い出していました。



時は過ぎ、私が25歳の頃の同じこの時期、ものすごく心が強く動き、涙が止まらなくなった出来事がございました。

ある日の午後、私は教会の祈祷会に参加していました。
祈祷会とは読んで字のごとくお祈りをする会でございまして、有志でそこに参加するお互いのため、教会のため、その他あらゆることのために集まってお祈りをいたします(終わったあとはお茶とお菓子でお喋りしたりもいたします)。
当時私が通っていた教会には、付属幼稚園がございまして、ちょうどその祈祷会の間も外の園庭からはわいわいきゃーきゃーと子どもたちの遊ぶ楽しそうな声が聞こえていました。
私の姪も一人、当時そこの園児でございましたので、より微笑ましい思いでその子どもたちの音を聞いておりました。

祈祷会の中で、お祈りする必要のあることやお祈りして欲しいことなどを出し合うのですが、そこで出された一つの話題は、
「幼稚園でインフルエンザが流行っている」
というものでした。

何だか急に、不安になりました。
今園庭から楽しそうな子どもたちの声が聞こえているけれど、ここにいない、自宅でインフルエンザの最中にあって苦しんでいる子どももたくさんいるということか。
まだ年少児の私の姪も、感染したらあの小さな体でそれと闘うのだ。
もしもあの小さな体が、ウィルスに勝てなかったらどうしよう…

インフルエンザが命に関わることがないとは言えません。
私の小さな姪にもしものことがあったら、私の心はどうなってしまうのだろうと、その時なぜか一気に不安が押し寄せました。

そして次の瞬間、強烈に一人の人、いえ二人の人のことを思い出しました。
7歳のこの時期に亡くなった私のクラスメイトと、そのお母様のことでした。

それまではその友人本人のことを思い出すことの方が多かったのですが、自分にも姪などが生まれ同居しておりましたので、どちらかというと親に近い立場となっていたその時(叔母の立場ですからもちろん親とは違うと思っておりますが)、
7歳で地上の命を終えた友人のことよりも、
7歳の娘との別れを経験されたお母様のことを強く心に思わされました。
あの時の彼女のお母様は、今の(25歳の)私ともそう年齢も離れていなかっただろう…。

正直を申し上げますと、事あるごとに思い出していたその友人のことも、高校を卒業いたしますとそれまであった「事あるごと」がなくなりましたので、以前よりも思い出すことが少なくなっておりました。
けれども、彼女のお母様はおそらく絶対に、一日足りとも彼女のことを忘れたことはないのだろう。
私が思い出すことのなくなっていた、高校卒業からのこの7年間もきっと毎日彼女のことを思い、毎年、彼女が地上にいたら何歳になっているかを数えていらっしゃることだろう…。

私は病気もせず25歳まで元気に生きているし、
私の同級生たちも皆25歳になっているけれど、
彼女のお母様は、25歳になっていない自分の娘のことを、
また25歳になっている私たちのことを、どんな風に思っていらっしゃるのだろう。
もしかして私たちぐらいの女性を、見たくもないのかな。同級生だった私たちなどとは会いたくもないのかな。
それでもきっと私たちと同い年の方と出会うことはあるだろうし、そんな時どんな思いでいらっしゃるのかな…。

彼女のお母様は、私が忘れていた日々も、どれほど苦しい思いをされて今日この日まで過ごしていらしたのだろうなどと、あらゆる思いが迫って来て心が大きく動き、大量の涙が流れ出て来ました。

お母様とご家族のことが心にかかるのですが、何もするすべがございません。
お花を贈る?お手紙を送る?などと考えても連絡先も分かりませんし、わたくしが連絡をしたところでお母様やご家族の慰めになるのか、逆に辛い思いをさせてしまうのかも分かりません。
特にお母様のことを、強く強く思うのですが、自分は無力で、なんにもできない。何かをする勇気もない。何もしない、しかできない。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
-------ピリピ人への手紙4章6-7節 (聖書)

その時、私は祈ることにいたしました。
「神さま、彼女のお母様を、あなたが慰めていてください。
私は今何もできませんが、彼女の周りに慰めや励ましを与え続けていてください。
何よりも神さまご自身によって、完全な慰めと平安を与えてください。
私は遠くどこにいらっしゃるかも分からない彼女に何もできないけれど、祈りによって神さまがすべての必要を与えてくださることを信じます。」

すると、私の心がスーっと楽になりました。
私には何もできないけれど、神さまが何とかしてくださる。
神さまの力を信じて祈ることが、私のできる何より一番のことでした。

私はその年から、少なくともこの時期には必ずそのクラスメイトのことを、またそのお母様のことを思い、祈ることにしております。
私は祈ることしかできませんが、生きて働かれる神さまが、必要なものはすべて与えてくださると信じております。
私はもしかしたら地上にある限り、そのお母様とお会いすることができないかもしれません。そうだとしても、神さまが完全な慰めと励ましを与えていてくださることを願い祈り続けようと思っております。


小学一年生のこの時期、学校で持たれた彼女のお別れ会で「こどもさんびか」にある「ことりたちは」という曲を歌ったことを覚えております。
彼女がこの曲を好きだったからと記憶しております。

同時に私にとっては「讃美歌第二編」26番の「ちいさなかごに」という曲も、何となく彼女を思い出す曲でございます。
小学生の頃よく歌ったのでございますが、これを歌うときは一年生の1年間お隣どうしだったの彼女のことを、いつも何となく思い出していたのだと思います。
現在の讃美歌第二編26番の歌詞と、私が記憶している当時こどもさんびかに載っていたと思っている歌詞が少し違って、私の記憶は不確かではありますが、
せっかくですので、私の小学生時代の記憶のほうの歌詞をこちらに載せさせていただきます。


「ちいさいかごに」

ちいさいかごに 花を入れ
さみしい人にあげたなら
色も香りも部屋に満ち
気持ち良い日を過ごすでしょう

愛のわざは 小さくても
神の力がこもるから
闇夜のような世の中を
真昼のように照らすでしょう



2019年2月1日