「本」に関しては、カバーや帯や、挿んである「新刊案内」や栞まで、ほとんどそのまま捨てることはできません、しません。
帯は、読む途中や読んだ後、外して本体に挟み込んで、そのまま並べることが多い。
おかげで3月に棚から落下した本たちの本体と帯の生き別れが続出し、困ったことになりました。
歌留多取りもしくは貝合わせよろしく、帯から本体を割り出して元に戻す作業は、楽しくはありましたがそれなりに手間でした。
自分のお小遣いで本を買うようになってから、この習慣は変わっていません。
辞書などのしょっちゅう使うものは函から出して置いときますが、函そのものも処分できず、本棚の上のほうに空の函だけ並べてたりします、二重に場所を取ります、バカみたいです。

特に函について、忘れられない苦い思い出がひとつあります。

小学校低学年の頃のこと。
おそらく「○年生のがくしゅう」といったものの中の特集ページに(記憶違いだったら、学研さまごめんなさい)、「身近なものを再利用して何かを作ろう」というのがあったのです。
本のケースを使って状差しを作ってみましょう、って。
(そういえば、「状差し」、最近遣わなくなっちゃった言葉ですね。レターケース?レターボックス? やっぱり状差し、だな)。
早い話、本の入っている函を葉書や封筒を立てて入れるのにちょうどいい大きさに(つまり普通の単行本だと下から半分弱の高さで)横にぶった切って、上半身(?)を下半身(!)と同じ高さにして逆さに嵌め込んで(!!)糊で固定すれば、ほら、状差しができるでしょう、というもの。
同じ方法で高さ違いのを作って合体させればもっと安定します、というような。

工作も嫌いではなかった、そして同級生よりも上手にカッターナイフを使えると自惚れていた私は、さっそくやってみました。
悪いことにその特集には、「きれいなデザインの函を選びましょう」なんていうような(これは忘れない、記憶違いではないと確信している)、余計なお世話の案内までしてあった。
だから、そのときの私は選んだんです、持っている中でいちばんきれいな本の函を。
ああ、それは、岩波の『星の王子さま』でした!
小学校入学のお祝いに年上の従姉妹がくれた、あの本。
王子さまの絵が切れてしまわないようにいろいろ加減するという工夫までして、ひとつ、仕上げましたよ、出来は悪くありませんでした。
……で、すぐに後悔しました。
外套を失ってなんだか心細そうな『星の王子さま』と、切り裂かれて「ただの箱」になってしまった外箱と。
なんという惨めで寂しい光景。

すぐに後悔することのできただけ、まだよかったと思ってはいます。
だけど、やっぱり、今でもどこかで怒っています。
本の函を工作の材料にせよとはなんたることだ、と。
仮にも子どもに「読み物」を提供する場だろう、「あなたの持っている本、函まで大事にして読みましょうね」という方向のものであっても然るべきだ、と。
牛乳パックの再利用法じゃないんだぞ、と。
子どもは、「素敵な奥さん」じゃないんだぞ、…書いてて、また腹が立ってきました、ごめんなさい。

ほんとうに、後悔しました。
本を函に出したり入れたり、その隙間の塩梅や微かに起こる風、あれこれまで堪能して「悦楽」なのに。
後悔と恥ずかしさの余り、その「状差し」は状差しとして利用せぬまま処分してしまいました。
ただ、その『星の王子さま』の本体はずーっと持ち続けています。
口や天は変色し、シミも多数です。
本来ならそれも「古い本の味わい」として愛おしいだけのもののはずが、これだけは今も「わが過ち」の証です。
その後、罪滅ぼしのつもりで再度「愛蔵版」を買い直し、函に入れたまま大事にし、非売品の文庫サイズハードカバーや仏語版・英語版のペーパーバックや、いろんな王子さまと一緒に「サン=テックス棚」に並べています。

もうひとつ、私の罪滅ぼしのつもり。
知人の子どもが小学校に上がるときには、岩波の『星の王子さま』単行本ハードカバー函入り、をプレゼントすること。
読んでも読まなくてもいいんだよ、その気になったら切り刻んでもいいんだよ、それで何かが君の中に残ればいいんだ、なーんにも残らなくったっていいんだ。
もちろんそんなことを言い足しはしませんし、私の自己満足ですし、罪滅ぼしどころか嫌がらせかも、とその都度苦い思いを甦らせつつ。


さて。
半端にきれいに終わらせるのもナンなので、最後に刺々しく。
「リビングのテイストに合わせ、本にはすべて白いカバーをかけて大きさ別に並べてます」とかいうインテリア特集!
本の背表紙がそんなに気に入らないなら、最初から買うな、並べるな!!
それなら今日び、iPadで済むだろうが。
悔しかったら裁断して革表紙で装幀し直して「○○蔵書」でも作ってみろ。
…さすがに最後は暴言にすぎます。
失礼。