大人らしいものになってから、この二昔ほど(つまりJリーグ発足ちょっと前ぐらいから)の、俄か仕立てのフットボールファンです。
いろんな展覧会・音楽会には可能であればできるだけ出向きますが、スポーツに関してはTV観戦が基本というナマケモノでもあります。
とはいえ、フットボールの試合は90分眺めていても飽きない体質らしくて、先週来、どうにも寝不足で困ってます。
試合前に両国の国歌を聴くことができるのも、フットボールの国際試合ならでは。
私はこれが楽しみです、オリンピックなんてさ、金メダルの選手の国の歌しか流れないじゃん、つまんない(しかもこないだの北京では、各国の国歌に勝手な編曲というか勝手な和声追加が為されていた、中国にブーイング!!!)。
それはともかく、ここしばらくいつもの「ウサギの巣穴での静かな時間」も減少気味。
夜中の1時を過ぎて、ガックリくたびれた挙げ句翌朝にそれを持ち越すことも屡々、あ~ぁ。
……以上は、普段とは少し違う時間割で暮らしていることへの言い訳です。
今宵は、別の話題。
本を読んでは一応の感想を読書コミュニティ「たなぞう」へ載せ、然る後に然るべき配架場所を考えて納めて……ということを繰り返しながら(もちろん、そんなにすんなりとはいきません、まだ未載の本ばっかり、迷ったり読みさしだったりして積まれている本の山もいくつもありますよ!)、「わが本の贖い方」について、ちと考えました。
「本を買って読む」、このことは、私にとっては純粋に損得勘定抜きの「趣味・道楽」です。
道楽だからこそ、身銭切ることができるってもんだ。
専門とか生業に関係するものもないではありませんが、それは必要経費であったりそれだからこそ別な意味で損得抜き(いやいや、損ばっかし)であったり、します。
峻別は難しいのですが、でもやっぱり私自身の中にははっきりと境界線があると感じ、それに従っています。
改めてそういう視点でわが家の壁(つまりそれはほとんどが、棚)を眺めて思ったことを、今宵はひとつ。
まず、文庫は、ありがたい!!
とくに昨今、紙の質もよくなったしそれぞれ意匠に工夫を凝らした文庫も多い。
同じ内容なら、価格はともかく場所をとらないのもプラス要因であることが多い。
「文庫というには高すぎる!」といいたくなるようなのも増えたけど、それでも単行本の価格を考えて「文庫だったら2~3冊もしくは1.5冊は買えるな、やっぱりこれはいいな」というような算段をしてしまうことが多い。
だが、しかし。
「何々文庫」の体裁の縛りから自由な単行本(最初から装幀をじゅうぶんに意識している叢書類も含めて)の魅力は、どうにも捨てがたい!!!
絶対に文庫にはなりそうもなかったり、全集・叢書として眺めておきたいものだったり、そんな魅力も。
最近のですぐに思いつくものとしては、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』でしょうか、これは文庫が逆立ちしても当初の単行本には敵いません(とはいうものの文庫版が出たというだけでもすごいことです)。
このところ私は、そんなあれこれを鑑みて「今日、身銭を切る本」を決めているようだ、と思い当たりました。
対費用効果の答えは、少なくとも本に関する限り、全面的に「個人」に依存するでしょう。
本って、持ってりゃ偉いってものではない、読んだからいいってものでもない、単行本だから上だとか文庫に「落ちた」っていう上下関係でもない。
ついでに、速くたくさん読めればいいなんて、もってのほかの愚の骨頂。
事々しくなりましたが、そんなふうに思います。
だから、簡易な文庫も大好きだし、ものすごく凝った装幀のちょっと高価な本も、私には同じように大事だし。
同じ作家の著書に関して、私はいろんな体裁のものを取り混ぜてしまう癖があるらしい、と、ようやく気づきました。
正確に言うと、結果的にそうなっていた、ということです。
そして、こういう状態が、とっても、好き。
著者、言語、テーマ、雰囲気、……、優先順位はあるけれど様々な要因によって私的な好みによってグラデーションで並べるのが、私の流儀です。
余談ですが(そして、いずれちゃんと述べますが)、マツオカセイゴウの3冊組なんざぁ、屁でもありません(失礼!)。
そこには、文庫も単行本も大型本も、基本的に優劣もなにもありません。
その混在具合こそが「私の具現」に他ならないのです。
無論のこと何であれ有限ですから、いつだって整理や処分や並べ替えの必要に迫られています。
それらを繰り返しつつ(まぁ、いつでも混沌ですけど)、単行本と文庫を同じ場所に置く醍醐味、ときによっては叢書をバラして別の場所に配架する禁断の愉悦を味わっています。
ほとんど偏執狂です。
いろんな展覧会・音楽会には可能であればできるだけ出向きますが、スポーツに関してはTV観戦が基本というナマケモノでもあります。
とはいえ、フットボールの試合は90分眺めていても飽きない体質らしくて、先週来、どうにも寝不足で困ってます。
試合前に両国の国歌を聴くことができるのも、フットボールの国際試合ならでは。
私はこれが楽しみです、オリンピックなんてさ、金メダルの選手の国の歌しか流れないじゃん、つまんない(しかもこないだの北京では、各国の国歌に勝手な編曲というか勝手な和声追加が為されていた、中国にブーイング!!!)。
それはともかく、ここしばらくいつもの「ウサギの巣穴での静かな時間」も減少気味。
夜中の1時を過ぎて、ガックリくたびれた挙げ句翌朝にそれを持ち越すことも屡々、あ~ぁ。
……以上は、普段とは少し違う時間割で暮らしていることへの言い訳です。
今宵は、別の話題。
本を読んでは一応の感想を読書コミュニティ「たなぞう」へ載せ、然る後に然るべき配架場所を考えて納めて……ということを繰り返しながら(もちろん、そんなにすんなりとはいきません、まだ未載の本ばっかり、迷ったり読みさしだったりして積まれている本の山もいくつもありますよ!)、「わが本の贖い方」について、ちと考えました。
「本を買って読む」、このことは、私にとっては純粋に損得勘定抜きの「趣味・道楽」です。
道楽だからこそ、身銭切ることができるってもんだ。
専門とか生業に関係するものもないではありませんが、それは必要経費であったりそれだからこそ別な意味で損得抜き(いやいや、損ばっかし)であったり、します。
峻別は難しいのですが、でもやっぱり私自身の中にははっきりと境界線があると感じ、それに従っています。
改めてそういう視点でわが家の壁(つまりそれはほとんどが、棚)を眺めて思ったことを、今宵はひとつ。
まず、文庫は、ありがたい!!
とくに昨今、紙の質もよくなったしそれぞれ意匠に工夫を凝らした文庫も多い。
同じ内容なら、価格はともかく場所をとらないのもプラス要因であることが多い。
「文庫というには高すぎる!」といいたくなるようなのも増えたけど、それでも単行本の価格を考えて「文庫だったら2~3冊もしくは1.5冊は買えるな、やっぱりこれはいいな」というような算段をしてしまうことが多い。
だが、しかし。
「何々文庫」の体裁の縛りから自由な単行本(最初から装幀をじゅうぶんに意識している叢書類も含めて)の魅力は、どうにも捨てがたい!!!
絶対に文庫にはなりそうもなかったり、全集・叢書として眺めておきたいものだったり、そんな魅力も。
最近のですぐに思いつくものとしては、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』でしょうか、これは文庫が逆立ちしても当初の単行本には敵いません(とはいうものの文庫版が出たというだけでもすごいことです)。
このところ私は、そんなあれこれを鑑みて「今日、身銭を切る本」を決めているようだ、と思い当たりました。
対費用効果の答えは、少なくとも本に関する限り、全面的に「個人」に依存するでしょう。
本って、持ってりゃ偉いってものではない、読んだからいいってものでもない、単行本だから上だとか文庫に「落ちた」っていう上下関係でもない。
ついでに、速くたくさん読めればいいなんて、もってのほかの愚の骨頂。
事々しくなりましたが、そんなふうに思います。
だから、簡易な文庫も大好きだし、ものすごく凝った装幀のちょっと高価な本も、私には同じように大事だし。
同じ作家の著書に関して、私はいろんな体裁のものを取り混ぜてしまう癖があるらしい、と、ようやく気づきました。
正確に言うと、結果的にそうなっていた、ということです。
そして、こういう状態が、とっても、好き。
著者、言語、テーマ、雰囲気、……、優先順位はあるけれど様々な要因によって私的な好みによってグラデーションで並べるのが、私の流儀です。
余談ですが(そして、いずれちゃんと述べますが)、マツオカセイゴウの3冊組なんざぁ、屁でもありません(失礼!)。
そこには、文庫も単行本も大型本も、基本的に優劣もなにもありません。
その混在具合こそが「私の具現」に他ならないのです。
無論のこと何であれ有限ですから、いつだって整理や処分や並べ替えの必要に迫られています。
それらを繰り返しつつ(まぁ、いつでも混沌ですけど)、単行本と文庫を同じ場所に置く醍醐味、ときによっては叢書をバラして別の場所に配架する禁断の愉悦を味わっています。
ほとんど偏執狂です。