ヨモスガラブフィルムスblog -3ページ目

台風すごいですね

単なる記録ですが、このあと、もっともっとすごくなりました。

YOMOFLY 始動

『コクリコ坂から』から

 観たのはおとついの話。

 感想は自分の中でひとめぐり、一段落した。
そう、「ゲド戦記」と同じ、おもしろいとかどうとかで片付けられないめんどうなめんどうな映画だった。

 特に前半、画や芝居にげんなりする箇所が度々あり、鳴りっ放しのウケの良さそでその実耳うるさいBGMや、つかみのないたるい展開にイライラしながら、空の色のきれいさだけを眺め見続けた。

 またゲドといっしょだ。へったくそだなあ。そうおもいながらも、ぼくはゲドが好きだったのを思い出した。いつのまにかえらく泣いたまま、映画館の明転を迎えた。しょうこりもなく、また、映画をつくりやがって。
 このへたくそが、このばかが、
 そう監督に対して思いながら泣いていた。
またもや宮崎吾朗のことを好きになっていた。
このひとには言いたいことがある。それはわかるけどなぜ涙が出たのかよくわからない。
 
 ジブリの映画の中では、ラピュタが一番好きだ。
わくわくどきどきして、エロくて、さびしいからだ。
そして、作った人のことを好きになったからだ。
このひとにも言いたいことがある。

 言いたいことがなければ、記憶に残らない。届かない。
自我という、暗くて深い穴の底から、だれか自分を好きになっておくれと歌う歌が映画だ。
吾郎は凄く、だれかに好かれたいらしい。そうやって穴の底で指を血まみれにさせてあがいてるのが、彼とその映画だと思う。

 ゲドの主人公や、今回の主人公”海”。どちらも体の周囲を薄く取り巻く膜がある。この膜が、穴だ。穴の底からずっと歌っている。好かれたい、それがゆえに、父王を殺してみせたり、欝になってみせたり、弱まってみせたり、闇と戦ってみせたり、めしの世話をしてみせたり、兄弟の面倒をちゃんとしてみせたり、旗を上げてみたり、上を向いて歩いたりする。そんなにまでに想うことその行為そのものに、そしてそうまで想われる父親というものに、涙が出たのかもしれない。