翻訳などをしてると
文法の違いなどの他に
主語を使うか
主語を使わないのか
それが大きな問題になります
例えば
殺気を感じたを
外国語に訳するのは
とても難しくて
殺気を感じたは
殺気が見えたという
訳にしないと伝わりにくい
でも日本人に言わせると
殺気は感じられても
見えないですよね
もし殺気が見えたという訳で
出版されている本を
もう一度違う人が
日本語に翻訳したら
殺気が見えたか全く違う訳が
付けられる可能性があります
そうなるともう
原作者の意図した文章とは
違うものになってしまいます
それぐらい言葉というものは
物の見方
ここでは考え方とした方が
良いかもしれませんが
自分が見る世界に
影響を与えているのです
本来言葉とは
コミュニケーションのツールとして
発達してきました
その過程で発見された
数字という言葉により
インターネットも生まれ
遠く離れた人とも
コミュニケーションを
取れるようになりました
しかし
言葉はその長い旅路の中で
様々な多様性を持ちます
歴史や文化に影響を受け
現在この地球では
様々な言語が話されています
コミュニケーションのツールが
コミュニケーションを阻害してる
そのようなケースも
珍しくありません
そこで日本では
より多くの人と
コミュニケーションを取るため
英語教育を推進してきました
最近では
幼稚園から英語を教えはじめ
日本語より英語が得意な
子供すら育ってきてます
はたしてこの教育は
正しいのでしょうか
このような教育を受けた
子供たちは大人になって
殺気が見える人に
なるのではないでしょうか
どうでしょうか
日本人の文化である
情緒的な感覚を失い
滅びゆく大国の言葉を
学ぶことに
価値はあるのでしょうか
英語を滅びゆく大国の言葉と言うと
違和感を感じる方も多いでしょうが
現実には
現在地球上で最も話されている言語は
スペイン語です
アメリカにはメキシコや
中南米や南米からの移民が増え
英語が通じない街も存在します
では英語に代わりに
スペイン語を学べばいい
もしくは中国語を学べばいい
こう考える人もいるとおもいます
しかしその考え方は
大きく間違っています
なぜなら外国語は
母国語が喋れて
始めて意味を持ちます
翻訳をしてたり通訳をするときに
重要になるのは母国語の知識です
相手の世界の見方を知るためには
相手のどの部分が
自分と違うのか
知らなければなりません
そのためにも
自分がどう世界を見てるのかが
大事になるのです
さらに言葉は
地方の特産物などと一緒で
地の物が一番体に馴染みやすい
つまりは生まれた土地の
風土にあった言葉が
その人にあった言語だといえます
もちろん
引っ越しが多かったりすると
一番長くいた土地に愛着があるように
言葉でも
一番長くいた土地の物が
自分のベースとなります
それに相手と違うことが
認識できれば
多くの意見の違いを
容認できるようになります
わたしとは違う考えだけど
あの考え方も有りかもしれない
こう考えられるだけで
紛争の種は確実に減らしていけます
さらに相手と違うということは
相手が苦手なことでも
自分は得意であるという
ケースが出てくるので
より困難な問題を
解決していくためには
世界が一つの言葉を喋るような
そんな未来は
避けなければいけません