少女は泣きながら歩いていた
一学期最後のプール
少女はクラスで一人泳げないまま
夏休みを迎えることになった
少女は涙を拭いながら
ひとつ深呼吸をして
自宅の玄関を開けると
アカネちょっとこっちに来なさい
祖父が自分を呼ぶ声がした

アカネは靴を脱いで
祖父の部屋に行くと
そこには見慣れない男が立っていた
祖父はアカネに男を紹介する
こいつはケンゾウ
わしの知り合いなんじゃが
アカネは明日から
ケンゾウに泳ぎを習いなさい
アカネとケンゾウは
同じタイミングで声をあげ
お互いに相手の顔を見たのち
ケンゾウが祖父に向かい
ちょっと待ってください俺は
祖父はその言葉を遮る
アカネこいつは
ドーバー海峡横断に挑戦した男でな
まあ頭は良くないが
泳ぎはたいしたもんだ
祖父はそれからケンゾウを見て
もう怪我は治っているんじゃろ
何も足がつかない
海を泳げと言ってるんじゃない
プールでアカネに
泳ぎを教えるだけでいいんじゃ
アカネとケンゾウはお互いに納得いかない表情をしていたが
祖父に押しきられ
次の日からプールで
泳ぎの練習をするこになった

最初はぎこちない二人の関係も
日を重ねるごとに親しくなっていく
ねえケンゾウ
なんでじいちゃんの言いなりなの
アカネは練習の合間に尋ねる
ケンゾウは少しムッとした顔をして
ケンゾウさんと言え
俺は年上だぞ
小言を言いつつも
ケンゾウは話しかけられるたびに
丁寧に言葉を選び話してくれた
アカネはその誠実な態度に
心惹かれていた
またケンゾウは教え方が上手くて
アカネはどんどん上達していった
アカネが一人で泳げるようになると
ケンゾウは少しずつ
距離を増やしながら泳がせ
いつもアカネの少し前で
ガンバレと励ましていた
そしてアカネが目標まで泳げると
頭も撫でて誉める
アカネはその手を払いのけると
子供あつかいしないでと睨む
可愛げのないガキだな
ケンゾウがそう言って笑うと
アカネはプールから出て
何にも解ってないんだから
ケンゾウに聞こえないよう
につぶやいてロッカーへ走った

その日の帰り道
いつものように
並んで歩いていると
ケンゾウは急に
真面目な顔でアカネを見る
ドキッとしたアカネは顔をそらす
アカネ聞いてほしいことがあるんだ
ケンゾウはアカネの肩に手を置き
語り始める
俺もうすぐフランスに行くんだ
アカネは驚いて理由を尋ねると
ケンゾウはゆっくりと
怪我をして泳ぐことから
逃げてたこと
でもアカネの練習を手伝っていたら
また泳ぎたくなったこと
フランスに渡って練習して
もう一度
ドーバー海峡横断を目指すことを伝えた
アカネは泣きそうになるのをこらえ
いつ行くの
声を絞り出す
来週にある遠泳大会に参加して
そのあとすぐだよ
ケンゾウの言葉を聞いて
アカネは走り出した
呼び止める声を振り切るように

ボロボロ泣きながら走った
アカネは自分の部屋で
窓の外の星を見ながら
ケンゾウとの練習を思い出してた
そしていつも
自分を応援してくれた
ケンゾウの声
アカネは膝を抱えながら
ガンバレ ガンバレ
つぶやくように繰り返した

遠泳大会の当日
ケンゾウはビーチで
準備体操をしてた
日本で泳ぐ最後
本当はアカネに
見せたかったんだけどな
そんなことを考えていたら
後ろからケンゾウを呼ぶ声がした
振り返ると
アカネがゼッケンを付けて
準備体操をしている
ケンゾウは驚き
アカネ何やってるんだ
そう問いただす
アカネはニッコリ笑いながら
わたしも出場するのよと告げた
ケンゾウは信じられないといった表情
お前解ってるのか
海とプールじゃ全然違うんだぞ
ケンゾウの言葉にアカネはうなずく
その時スタートの合間が響いた
ほら始まったよ
私は無理しない程度に泳ぐからと
アカネはケンゾウの背中を押した
ケンゾウは約束だぞと言って
海へ飛び込んだ
アカネもそのあとに続く

ケンゾウの泳ぎは
ブランクを感じさせないくらい
速くて綺麗だった
アカネは遅れないように
懸命に泳ぐ
アカネは泳ぎながら
ケンゾウに向けて叫ぶ
いいぞ行けケンゾウ
フランスでも
何処まででも行っちゃえ
ケンゾウはアカネに向かって叫ぶ
よくついてくるじゃないか
しかし次第に
ケンゾウとアカネの差は広がり
アカネは大きな声で叫ぶ
ガンバレ
それと私のこと忘れないでね
アカネはついに
ケンゾウを追いかけるのを諦め
遠ざかっていく
ケンゾウの背中を見ながら
ガンバレ ガンバレ
何度も繰り返しエールを送った