エネルギーの仕込みと放出だ

すべてはそうなっている

 

人間の代謝というのもそうだろう

食べて排出するの繰り返し

 

蒸気機関車を思い浮かべると良く分かる

機関手が汗みどろで石炭を釜に放り込む

 

蒸気を作ってその力で蒸気機関車は走る

人間も同じだ

 

身体に限らず心も、生きるという営みがそもそも

インプットとアウトプットの繰り返し

 

人はみな命を授けられたとき自分用のパーソナルな脳を預かる

ありがたいスーパーコンピュータだ

 

そこにオリジナルな自分なりのビックデータを蓄えて

生きていく

 

そのデータの出し入れが

人の考える「生きる」ということでもあるわけだ

 

出来のいい悪いはあっても

まずはありがたいと感謝しよう

 

生成AIがいかに世の中を変えようと

「私が生きる」ということは

 

私というパーソナルでオリジナルなスーパーコンピュータでの

日々刻々のデータの出し入れ以外にない

 

主体を見失わないことだ

 

生成AIのチャットGPTに

「はは、そうでございますか」じゃないもんな

「おお、そうなのか、苦しゅうない」だろ

 

ご主人様はあくまでも

マイ・パーソナルスーパーコンピュータだ

 

白を黒と言おうが、記憶がどんどん再構成され

好き勝手な虚構の物語の中に生きようが

それが自分にとっての正解なのだ

 

この先シンギュラリティが起きようとどうなろうと

「生きる」ということは自分の脳みそ内の処理と情報の出し入れに変わりない

 

だが、多くの外部要因に反応するだけのリアクション人間や

完全に社畜化、家畜化された指示待ち人間がAIの奴隷になるのは

もう止めようがないだろう

 

AIに人間との主従関係をプログラミングする事を義務化すればいいと

思ったりもするが、難しいのか

 

世の中にAIがアウトプットする正解が溢れると

どうなるのか

 

もっとも、それはビックデータの寄せ集めに過ぎないが

現在の社会が共有する叡智ではある

 

ビックデータ的正解が溢れると、正解の価値が暴落し

あり得ない解答の価値が上がる

 

少なくとも、そっちの方が面白い

 

だが、その頃には交通違反のような新たな法律が出来て

「AI順守義務違反」か何かで、逮捕されるかもしれない