これも松本清張の半世紀前の小説のタイトルだ
昭和の只中、昭和の深い森の中から出た社会派推理小説の傑作だ
当時、「点と線」は日常生活とかけ離れたミステリアスな空間だった
詳しいことは忘れたが、鉄道の時刻表の間隙、乗り換えを使ったミステリーではなかったか
考えてみれば、いつの間にか「点と線」は日常となった
いや、「点と点」じゃないか? 何せ何もかもデジタルの時代だ
みんなそれぞれがモバイルの端末を持ち歩いて
それぞれの勝手な空間を生きているのだから
公共交通機関や通りやオフィスや学校やスーパーや、様々な場所で人の集団や流れを見ることができるが、そこにいる人達の多くはスマホで何処かとリアルタイムで繋がっており、目に見ることのできるそれは今実際に起きていることのほんの一部でしかない
それぞれのスマホからは電波が発信されていて何処か予測不能な点と結び付いている。その実態は誰にも把握しようがない
JRで向かいの席に座っていようが、喫茶店で隣の席で珈琲を飲んでいようが、モバイルの端末が何処かに繋がっていれば、そこにいるのはその人の抜け殻でしかない
少なくとも既に「面」は専業農家でもない限り意味を消失した感がある
更にその人の肉体の動線は捕捉出来るが、その事にもたいした意味はなくなった
人は昭和のど真ん中に比べれば、随分とミステリアスになった
他人から意識の在り方を見透かされる事のない分、格段に自由度も増した
そのはずだった
だが、昭和から生きて来た俺の主観に過ぎないが、スマホで何かやってるのをミステリアスだとは思わない。自由度が増して昭和の人間よりも幸せだとも思わない
大概はゲームをやっているか、LINEでつまらない会話をしているか、フォアグラのようにただ流れてくる情報を鵜呑みにしている程度だろうし、そうでなくても、スマホを覗いている連中に全く何の興味も感じない
誰も彼もが、もぬけの殻、抜け殻じゃないか
世の中全部、ゾンビじゃないか
これって狂ってないか?
肝心な肉体という母屋を置いて
何処へ行ってんだよ
母屋を見てみろよ
意識は幻想の自由に遊んでも
母屋は奴隷そのものじゃないか
だから、自分が家畜や社畜、奴隷である事にも気付かず
いいように人生を搾取され続ける
哀れな奴らだ