「方便」とは確かに仏教から来ている言葉のようだ

 

「方便」を検索してみると

 

① 仏教において、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味する仏教用語

②目的のために利用する便宜の手段。手立て(嘘も方便などの用法)

③都合のよいさま(多くは御方便という形で用いられる)

 

玄侑宗久の本を読んでも、仏教用語としての方便と、手段や都合がいい的なニュアンスの方便が混ざり合っていて、どの意味なのか曖昧な部分もある

 

仏教では本分(真理・本質自我)に対するものとして「方便」があるという。この「方便」は現実であり、自分の属性であり、周辺自我であるという

本分を意味する言葉は他にも「全的自己」「無一物」「因果一如」「不二」「平等」「絶対的一者」など色々あるだろうが、要はこれら以外のすべては「方便」だというのだ

 

「本分」はあるという超越意識

「本分」と「方便」の往還の無限連続という禅的修行

現実の今ある自分は方便なのだという俯瞰的意識の継続

 

ここだけは絶対的に押さえたうえで

あとは「方便」の世界に「ゆらぎ」を楽しめというのだ

 

「方便」とは確かに、いい加減な言葉だと思う

しかしまた、なんと魅力的な言葉だろうか

 

「方便」を使いこなすには、凄まじい修行と自己研鑽が必要であることは

言うまでもないが、まずは少し気分は楽になれる

 

方便の現実を自在に生きれるかどうかは別にして

今、四苦八苦、重き荷物を背負いて坂道を登るが如き人生が

仮想現実(迷える虚構)のようなものだと言うのだ

 

別段、新しい発想ではないのかもしれない

向こうに浄土があってこの世は仮の世だとね

 

だが、似て非なるものではないか

「本分」と「方便」は同時に存在するのだから

 

量子的世界が見えてきた今でも尚

禅的世界は光を放つ

 

禅的世界が核心を突いている

禅的世界は「今」を説いている

 

さらに、余計なことだが「方便」という響きがいい

ほうべん・ほうべん・・

マントラにしたいくらい禅的な余裕がある