過日仲のいい職場の同僚が一冊の文庫本を差し出してきて、「映画を観てそのなかで出てきた本なんですけど、読んでみて、よかったのですが、お読みになりますか」という。
「ああ、これはね、ありがとう持ってますよ、たまに読んでます」とお礼だけ云った。

その本は以前からそれを書いた著者の文章を読むのが好きでもあり、全集を所持している。





さて唐突に。「木」という随筆で有名なのは幸田文だが、幸田文の文章というのが「木」だけに限ったことではなくこれがまたとても良い。

元古本屋芳雅堂店主、古本屋の店主をしながら作家となって直木賞を受賞した出久根達郎氏や、詩人で名随筆家でもある荒川洋治氏なども公言している。
「幸田文の随筆がすばらしい」と。

かくいう私も幸田文の書いたものを読むの好きで、以前から所持している二十三巻本の全集を繙き、時間の空いたときなど思うがままに読んでいる。

まあ個人的には講談社文芸文庫という文庫版の小ぶりなサイズと好みの活字で寝床でごろごろしながらページからをはぐるのが、もう何年も前からの小さなたのしみとなっているのである。






























茶の間は往来からたった六尺ほどひっこんでいるだけなので、外の物音や声は随分よく聞こえてしまう。あまり何でもよく聞こえるから、ときどき変な気持ちにさせられる。からだが家のなかにいながら、眼だの耳だのが往来の物事のところへついて行ってしまう。そんなとき、茶の間が往来へ編入されているような気がするし、私が往来へ参加しているような錯覚も起きる。わたしばかりでなく家人もそんなことを云っていた。もともとこの建物は薄いのだし、住む人間も軽いのだ。うちそとの境などあってもなくても同じようなもので、そのしきりがちゃんとできる分際ではない。つまり、埒もないというそれなのである。
(幸田文/道ばた)






















包む
幸田文
講談社文芸文庫
1994年5月10日第1刷発行







幸田文の随筆は幸田文自身の生きる姿そのものをあらわしている。

日頃から常識をこえて楽しむ観察をするだけではなく、実地をふまえに往来に出て、その観察と思考を粘りづよく持ち続けて見とどけることをやめない。

そのようなまなざしとおもいを持ちつづけることによって、通りすがりの市井の人々の生きる姿勢や、その呼吸までもありありと感じとることができるのである。

このような書くという行為を実践することよってたどり着くことができる人生の風景というものは、ありのままの姿そのものを受け入れる、ということによってのみ惹き起こされる、ある種の輝きに満ちた肯定感に彩られており、その輝きとは読むものの心をあたたかく照らし出す。





















(音源お借りしました)