音拝借





昨日はまたしても湾岸の方へと仕事で行ってきた。




雨には降られなかったのだが、帰宅時間の頃にはザアザア降りになった。











〝雨ざあざあ
 文太びっしょり
  ドスもずぶ濡れ
 仁義を抱いて死にますぜ〟



わが別宅にある『関東テキヤ一家天王寺の決斗』のポスターの菅原文太の粋な姿と文句、それとそのとなりに架かる清水港二十八人衆、次郎長、大政小政、大瀬半五郎、法印大五郎、追分三五郎、関東綱五郎、そして森石松などの名がならぶ三度笠のことがふと頭をよぎる週末の雨の夜。

菅原文太について、ある方のブログで触れていたのでコメントしたかったのだが、タイミングを逃してしまったのをおもい出す。

菅原文太、1980年代頃の雑誌ユリイカに寄稿していたのを以前読んだことがあったのだが、スクリーンで暴れまわる彼とのギャップがあるその筆致に仰天舌を巻いた記憶がある。

そのときに彼に対してある種の敬服が湧いた。



テレビのなかでは我妻善逸が雷の呼吸壱ノ型、霹靂一閃で鬼の素っ首叩ッ斬っている。

うちの倅、通称セガレックスは、いつもながらの?ケダモノの呼吸にてカレの朋輩とニンテンドー・スイッチで格闘している。




【三度笠】


札つきの追われものとなってから
腕が冴えていったのではない
冴えさせられていったのだった
おそらく あのように札つきであることへ あわただしくいそいだのは
艶ごとのつまづきの苦患(くげん) また その湧出にいためつけられて
ついには そとからの規制をねがったのではなかったか
うま酒の酌める流転のただなかの深みに おのれひとりでは立ちつくすことはできず
札つきの枠づけ
その秩序にはめいれられ ささえられて
そこに立つことを願っていたのだった
賭場
他郷の祭

いろはのいの字は知らず
ひとを斬り おのれを斬り
無用者は街道にまなびとっていったのだった
明証とよんでよいものを
おのれのどこにも この冴えの発光源は見あたりはしないと


角田清文
詩集『追分の宿の飯盛女』
(昭和37年)所収


任侠者の心理を入れ物として借用し、ひとつの詩としての仕立て上げは、お見事なりや。