今年の8月末で,父が亡くなって丸2年が経ちました.
父の死後,1年経ったあたりから,気持ちの面は随分落ち着いてきたので,
もう心境の変化とか起こらないだろうなぁ〜と思っていたんですが,
思いの外全然ありましたね(笑)
主な変化としては,父の死と自分の感情を上手く切り離して考えられるようになったこと,
それに伴って,父の死に対しての憤りの感情が薄らいだこと,
また自分の気持ちは自分でなんとかしようと思うようになったことです.
父を亡くしてシリーズは,3ヶ月後,8ヶ月後,1年後,とそれぞれ書いて来ましたが,
今回も例に漏れず,上に挙げた事柄について綴って行きたいと思います.
父の死と私の悲しみは別物
父の死と自分の感情を切り離して考えられるようになったというのは,
「私が悲しいのは父の死が原因じゃない」というのとは違います.
私が悲しいのは紛れもなく,父の死と関係しています.
ではどうゆうことかと言うと,「父が亡くなった」ということはただの事実でしかなくて,
それを受けて「私が悲しい」というのは「私自身の問題だな」と思えるようになったと言うことです.
「父が亡くなった」と言う事実は,同様に私の母や兄にも降り掛かることだけれど,
それに対して抱く感情は三者三様で,もちろん対処の仕方も各々違うわけです.
上手く受け止められる人もそうでない人もいる.
私は「父が亡くなった」と言う事実がある限りは,
「私は悲しい」と言う状態から抜け出せないんだろうと,無意識に思ってしまっていました.
でもそんなこともないんだろうな,と今は思います.
父は亡くなったけど,時によって私は悲しくなる事もできるし,悲しくならない事もできる.
自分が悲しいのは,悲しいと感じる他でもない自分のせい.
自分の“せい”って言うと,まるで自分が悪いみたいに聞こえるかもしれないけど,そうじゃなくて.
自分のキャパシティが100しかないところに,
大事な人の死というダメージ6,000みたいなイベントが降って来たら,
それに耐えられないのは当たり前.
そういう時は悲しみに打ちひしがれるしかないと思います.
でも,6,000は全部自分で抱え込まないといけないわけじゃなくて,
人に話すことによって,1,000くらい分散させたり,
文字に起こすことによって,800くらい消化したり,
はたまた時という器に乗せて10とか20ずつ流して行ったりすることができる.
もちろん自分のキャパシティが100から200,変化が大きければ一気に2,000とか
勝手に拡大する事もできるし,もしくは“させられてしまう”事もある.
私はこの過程を経て,自分の感情キャパシティは多分100から1,600くらいまで拡大したし,6,000ほどあった父の死というダメージ経験も200〜500くらいで収まるようになって来た.
ダメージが自分のキャパシティに収まるようになって来たから,
父の死は自分の感情とは別物と思える余裕が出て来たのかもしれない.
父の死の持つパワーが大きい事と,私にそれを受け止めるキャパシティがあるかどうかは別のことで,それどぞれのスケールの変化によって,相関の仕方が変わってくるなっていうのが最近の考えです.
そういう意味で,私は父の死と自分の感情を上手く切り離して考えられるようになった.
父の死に対する憤り
父が亡くなった直後,と,その後しばらく,
「なんで死んじゃったんだよ」と思うことが正直何度もあった.
いや,「なんで死んじゃったんだよ」というアグレッシブな感じよりは,
もっと「今もお父さんが生きててくれたらなぁ」という,
父が生きていたら,私の生活・人生のいろんな場面で,
もっとやりやすいこと多かっただろうなぁと,
ちょっと責めるような恨むような気持ちがありました.
こういう気持ちの根底にあったものは,実は憤りだったのかなぁ〜.
本当,今思えば甘えでしかないんだけど,「他の人はお父さんがいて,私がやりにくい事も簡単にできてる」と思って自分の状況を恨めしく感じることがあったのは事実です.
あと,父が生きてたら,
私はこんなに感情的に辛い思いをしなくて済んだのに,
とはすごく思った.
でも,父の死を自分の感情と切り離して考えられるようになってからは,
こういう気持ちも薄らいで来ました,
私の生活が前ほどイージーモードじゃなくなったのは,
事実として父の死とダイレクトに関係があるけど,
その状況をキツいと感じるかどうかは本当自分次第だなって思う.
父が亡くなって私が辛いのも,別に父のせいじゃない.
私が悲しいと感じるから,悲しいだけの話だ.
そう思えるようになって,父の死への憤りみたいなものも大分減ったし,
同時に憤りを感じてしまう自分への罪悪感もなくなっていってるから,
本当,感情的には平穏になって来てると感じます.
自分の感情は自分でなんとかする
以上のように考えるようになると,
自分の感情は自分でなんとかしないといけないなって自ずと考えられるようになりました.
自分の感情を本当の意味で扱えるのは自分だけだと思う.
人に助けを求めるのは本当に大事なことだけど,それは自分が自分で立ち直るための
手助けであって,最終的に立ち直るかどうかは自分次第だから,
で,私は立ち直るという選択肢を今のところ選び続けています.
感情の波が増幅した時,その波に身を任せて「あ〜消えたい」と思う事もあるけど,
「とりあえず今は生きてみる」とその度に決めている.
身近な人には「とりあえず死なないことが当面の目標です」って言ってたんだけど,
もうそろそろ「なるべく楽しく感じられるように生きていくことが目標です」に
切り替えても良いかなぁ〜と思い始めています.
話がそれましたが,まぁ自分でなんとかしようと思ってから,
こんな言い方するのは間違ってるかもしれないけれど,父の死を許せるようになった.
父の死は「仕方ない」と思えるほどドライには考えられていないけれど,
「この世にとどまって居たかったはずの人が,この世に居られなくなってしまった」
こういう時のその人の気持ちは計り知れない.
どんな気持ちだったかなんて分からないけれど,「もっと生きたかった」と思って居たとしたら
自分が死んじゃうなんて残念でならなかったと思う.
そういう気持ちを抱えていたかもしれない人に,
遺された私の気持ちの責任も取ってほしいとは思いません.
今思うのは,本当,
「自分の気持ちは自分でなんとかしますから,どうか心配しないで,安らかにお眠りください」
ということ.
死後の世界があるかは分からないけど,本当に安らかな気持ちでいてほしいです.
なんとか頑張って生きていくから,私の成長を喜んでくれたあの時の笑顔で,
今も穏やかに見守っていてほしい.
そんな風に最近思います.
最後に
こんな風に思えるようになったのも,本当周りの人たちのおかげでしかなくて,
それに関しては,これからも変わらず感謝していきたいです.
そして,少しずつ,できるだけ感謝の気持ちを自分なりに還元していけたら良いなと思います.
そうやって,地道に生きていきたいです.
長くなりましたが以上です.




