本日私宇留寅万太郎の30歳の誕生日です
そこで今回はこれまでの自分の半生を振り返ろうと思います
※長くなる場合は記事を分けます
30年前の本日1965年生まれの同い年の両親の北海道札幌市にて誕生
同年5月頃結婚した新婚で父は9/3、母は9/18の全員おとめ座という家族構成です
母方の祖父が持つアパートの一室が住まいで近くには同年代の友だちも居ました
2年後、妹が誕生し兄となる
正直なところ兄としての自覚はあまりありませんでした。今もあるかと言われれば微妙なとこですが…
11月生まれのいて座です
3歳頃、母親に勧められウルトラマン好きになる
これが今のオレに繋がっていくことになります
母曰く、テレビ放送していたグレートとパワードを見ていたそうですが本人に記憶無し
この頃から人見知りをあまりしなく家族で行った健康ランドでご飯を食べてる時にいつの間にか隣のおじさん達に混じり一緒に枝豆を食べていたというエピソードがあるくらいです
ただ体は強くなく小学校卒業辺りまで毎年何かしらの病気にかかるくらい病院にはお世話になっていたと記憶しています。それのお陰で注射や点滴といった体に尖った針のようなもの刺すという行為がとても嫌いになりました
4歳、「ウルトラマンティガ」の放送がスタートする
第1話からテレビにかじりついて見ていたのがつい昨日のようです
この頃初めて生のウルトラマンに会いましたが若干怖かったです
家にあった昔の写真を取り込んだ
— 宇留寅万太郎@ノアの人 (@MANTARO_Npro) 2016年7月2日
グレートと一緒に写ってるちびっ子は俺です。
こん時グレートが怖くてそっぽ向いちまったのも今はいい思い出 pic.twitter.com/pDjApoPt0j
5歳頃、幼稚園入園と引越しと「ウルトラマンダイナ」放送スタート
ティガの放送中に入園します
母方のじいちゃんが亡くなったのもこの年でした。この頃から人の死を目の当たりにしていくことになります
同年ティガに引き続きウルトラマンダイナを視聴。年相応にダイナにどハマりし、変身スーツや隊員服に身を包みながら楽しんでました
また、この頃SMAPのキムタクこと木村拓哉に憧れていたので髪を女の子ように伸ばしていました。同級生のお母さん方から髪がサラサラで羨ましがられたそうです(母談)
この頃の性格は気が優しく元気だけど泣き虫ではありました。交友関係は良好で男女関係無く色んな友だちと遊んでいました。初恋もこの辺りだったかな?
6歳頃、「ウルトラマンガイア」放送スタートと卒園
ティガとダイナに続きガイアも視聴していました。難しい話はよく分かりませんでしたがXIGの隊員になりきりつつ2人のウルトラマンの活躍に手に汗握りながら応援していました。試写会ながらガイアの映画にも連れて行ってもらい、テレビより先にガイアスプリーム・ヴァージョンをスクリーンと生で会えたのがかけがえのない思い出です
同じ年の夏頃に幼稚園に近い一軒家に引越し、以降20歳までをその地域で過ごすことになります
同年母方のおじさん(母の弟)が亡くなりました。突然の事だったので子どもながらに悲しかった記憶です。前年のじいちゃん同様もっと一緒に過ごしたかったと思っています
また卒園と共に当時好きだった女の子ともそれっきりとなりました
7歳~、小学校入学
小学校に入学すると同じ地域住むの別の幼稚園や保育園に通っていた子らと初対面するのでワクワク半分不安半分の心境だったと思います
後にウルトラのスーツアクターになる人物と出会ったのもこの年でした
ウルトラは残念ながら本格的なテレビ放映が無かった(ティガの再放送はしていたらしいが当時未視聴)ので雑誌や玩具での遊びに留まっていました
9歳頃~、「ウルトラマンコスモス」放送スタート
小学3年生の年、幼稚園児の頃触れてきたウルトラとは打って変わったヒーローの登場にとてもワクワクしました。それまで居なかった主役で青いウルトラマン(サブでアグルという前例はありましたが)に胸を躍らせ毎週土曜日の夕方を楽しみにしていた頃が懐かしく思えます。コスモスの映画は2と3を劇場に足を運びムサシ隊員のトークショーやレジェンドとのグリーティングに行けたのは何よりの思い出です
この年、クラス替えにより初めて一緒になるクラスメイトが何人か居ました。毎日のように遊ぼうと誘ってくる子やオレをいじめての標的にする不届き者ともここで初めて顔をあわせました
~12歳頃、猫2匹とウルころとULTRA N PROJECT始動と小学校卒業
小5秋頃母方のばあちゃんから猫の鳴き声がすると電話があり、母と妹3人でばあちゃんの家に行きました。すると畑の中から仔猫の鳴き声が複数しておりどうにかしてくれとのこと。自分と妹は動物に触れなれておらず母が捕まえてくれました。捕まえた仔猫は2匹でキジトラのオスと白ベースの黒縞が入ったメスでした。母方の家でかつて使っていた猫用のケージが幸いにもあり、一旦家で預かることに父が帰ってきてからどうするかということになり話し合いの結果家族の一員になりました。最初は触ることもままならなかったのですが育てていく度に可愛くて可愛くて仕方なくなりました。
コスモスの展開が落ち着いた頃当時我が家で入っていたケーブルテレビのチャンネルの1つ「ファミリー劇場」にて初めて「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「ウルトラファイト」を視聴しました。初めて見た感想は図鑑や再編集ビデオでしか見たこと無かった怪獣やお話はこうゆうことなのかと初めて知ることが多かったです。特にファイトは最初よくある再編集ものの帯番組かと思えばいつの間にか新撮のアトラク怪獣バトルに色んな意味で唖然としました。同時期にやっていた「ウルトラ情報局」とも合わせて楽しく見ていました
同時期に早朝月~金に放送していた「ウルトラマンボーイのウルころ」も眠い目を擦りながら楽しんでいました
そして2004年、衝撃的なビジュアルで登場したあのヒーローとの初対面な年でもありました。
それが「第1の使者 ウルトラマンノア」
幼稚園児の頃からテレビマガジンを頻繁に買ってもらい新情報や歴代の活躍を拝見していましたが彼の姿を見た瞬間それまでのウルトラヒーローの常識を覆すような要素をふんだんに詰め込んだような見た目に一瞬にして心を奪われました。そこからノアが活躍する雑誌グラビア展開「ウルトラ戦士列伝 バトルオブドリーム」を毎月楽しみにしていました
同年秋、「ウルトラマンネクサス」放送がスタートしコスモス振りの30分新作ウルトラにワクワクしました。残念なことに土曜の朝の放送なのでとても眠かったのと内容が難解で画面も暗くてよく分からなかったのと展開が遅くウルトラマンの登場時間が短かったことに少々ガッカリしたのもまた懐かしいです。終盤から最終回で全て払拭してくれたのでよかったですが
同年冬、映画「ULTRAMAN」の公開
我が家は父親と2人で試写会を見に行きました
CMを見ていた時からそうですが今までのウルトラとは違いとてもハードであり新しい映像表現と今までに無かった生物チックなウルトラマンのビジュアルにノアとは別の衝撃を受けました
そんなNプロ展開中に小学校卒業を迎えましたがこの頃はいつか円谷プロに入って監督になって新作を撮りたいという夢を持っており卒業文集もそれを題材にしました
13歳頃、中学校入学とNプロ終了と「ウルトラマンマックス」
それなりの小学校生活を終え迎えたのが中学時代、ここから暗黒期が始まるのだった
小学時代は勉強や成績は特に意識していませんでしたが学力アップのために学習塾に通い始めました。場所は祖母の家の近く、最も祖母が所有する建物に入ったテナントでした。
中学1年生、担任が新米の女性教師で担当は理科でした。自分の小学校から来た生徒は比較的大人しい性格が多い中、同じ地域の別の小学校から来た連中は多少ヤンチャな人が多い印象でした。クラスは日を追う事に荒れていき等々授業中に問題を起こすものまで現れ、更には理科の実験で使用した鉱物を密かに担任といじめの対象の生徒(この時は標的にならず)の給食に混ぜるという騒動にまで発展しました。これは学年全体で大問題になり学年集会で集められるという嫌な思いをしました
そんな中、当時ファンの間で賛否が飛び交ったNプロの「ウルトラマンネクサス」が終了しました。先に述べたように当時は眠い目を擦り、辛い展開に耐えながら挫折することなく最終回まで完走しました。千樹憐から光を受け継いだ西条凪がレーテの闇に囚われ主人公の孤門一輝が救出して光を受け取る展開は今でも込み上げてくるものがあります。そしてウルトラマンに変身し姿を変えながら黒幕のダークザギに挑む姿はウルトラマンでありながら各デュナミストを支えた孤門そのものにも感じました。そして究極最終形態であるウルトラマンノアに姿を変えた時は全身に鳥肌が立つくらい衝撃でずっと雑誌展開から追っていた身としてはとてつもない感動でした。ノアがテレビで動いてる…
終わり良ければ全て良しとは言いますがまさしくその通りだとこの時思いました。
放送開始当初配布されたミニカレンダーには9月末までネクサスの予定でしたが諸々の事情で放送が短縮され次回作の「ウルトラマンマックス」同年の夏に放送スタートしました。ネクサスとは打って変わって従来のウルトラシリーズのフォーマットを基本としつつ最新の映像技術を取り入れた明るい作風の作品でした。「マン」と「セブン」の歴代怪獣復活という目玉回も小学生の頃ファミ劇で2作を事前に視聴した自分にとっては興奮ものでした
ここから毎年(19歳頃まで)昭和のウルトラシリーズを振り返る良い機会に恵まれたと思います
14歳頃、「ウルトラマンメビウス」放送スタートとウルトラマン40周年
中学2年生になり学年担任が4人中3人交代しました。前述の事件が起きたため仕方ありませんが。それでも相変わらずいじめや問題行動を取る生徒は少なからず居ました。ハッキリ言ってしまえば人間の中に動物が紛れ込んでいるような状態でした。そんな中自分は大人しくしていました。暴れたところで早く終わるものも終わらなくなるし無意味だしくだらないと思っていたからです。またオレのことを小学時代からいじめていたヤツは相変わらず自分を標的にし、毎日顔を平手打ちにしてきました。これのせいで小学3年から中学卒業まで頬は真っ赤になっており写る写真全てその状態でした
学年が上がると同時に始まったのが「ウルトラマンメビウス」でした。マックス同様歴代怪獣復活に加え歴代ウルトラ兄弟集結というある意味M78星雲ウルトラの集大成とも言える作品でした。
15歳頃、高校受験と中学卒業
中学3年生、高校受験を控えていたので学年全体の荒れた雰囲気はこの頃には収まっていました。問題行動を起こせば内申点に響く、ごく当たり前のことですが
我が家では受験勉強に集中するため娯楽の制限などが科せられていました。具体的にはニチアサを見てはいけない、家でのテレビゲーム禁止等々(何故かウルトラのみは許されていましたがグッズを買うと嫌な顔されるくらい)
原因は中一の最初の中間テストで予想より酷い点数を取ったことでした。凄まじい怒られ方をして自分の部屋に逃げ込みましたが自分の態度から反省していないと判断されたようで父親が乗り込んできて更なる説教をくらいました
子どもの頃から親からの説教というものにとても恐怖を覚えいつ来るか分からないなかビクビク生活していました
それでも勉強する中で自分がどんどん成長いっているというのを自覚し、楽しみを覚え率先してやっていたというのもまた事実です
肝心の高校受験は見事志望校へ合格。これで新たな1歩を踏み出せるとこの頃は思っていました
16歳頃、高校入学と放送局
第1希望の高校に入学し中学までの憂鬱だった日々から明るい希望を抱いていましたが物語のような青春なんて特にありませんでした
入学と同時に新しく部活(厳密には違う)放送部(放送局と呼んでいた)に入りました。3年生が2人、2年生が4人で自分を含めた1年生が7人。女子比率が異常に高く男子が各学年に1人だけといういわゆるハーレムみたいな状況でした(実際にはそんなにいいものでもありませんが)
高1から高3まで寒い時期はバス、暖かくなると自転車通学をしていました。家があるのは山、学校があるのも別の山。片道45分の山を降りてまた登るという生活を約3年間続けました。お陰で中学までよりかは多少体力が付き脚の筋肉が乗っかる程でした。今思い返せばよくあんなことしたななんて思います。
その頃のウルトラは新作をテレビ放映せず映画やOVといった別の映像作品で展開するという形を取っていました。自分として毎週見れないのは寂しいと思いつつこれまでの作品の振り返りと未視聴の作品鑑賞という機会が出来たのだと思い様々な作品に触れていきました。当時公開された「大決戦!超ウルトラ8兄弟」は中学の同級生を2人連れて自分の16歳の誕生日に見に行きました。自分が幼少期に見たヒーローの活躍を映画館のスクリーンで見れるのかと思いワクワクしました。映画という興奮と自分の見てたヒーローの活躍という懐かしさが混在する感情でした
17歳~18歳頃、進路とブログ開設
高校2年になり進路に向けてクラス替えが行われました。自分は主に理数系が得意だったのでそちらに進みました。成績は良かったかと言われるとそうでもなかったと思います。(正直なところよく覚えていない)
高校3年、妹が高校入学と同時に携帯電話を持つよう言われました。(自分も高1の時点で欲しかったよと思いつつ)初めて持ったのは2つ折りのガラケーではなくiPhone3GSでした。母親の意向で持つなら良い物にしなさいと(先見の明があったのでしょう)
当時のクラスメイトでも持っているのは自分のみで最新の機器を持っているという高揚感みたいなのはあったと思います。
同年の秋に当ブログを開設しました。なんやかんやでこの名前を名乗り出して12年。本来なら趣味以外にもプライベートな話題も書こうと思っていたのですが如何せん文章を書くことが苦手だったものでただの趣味ブログと化してました
翌年には「ウルトラマン列伝」の放送もスタートし、再び地上波でウルトラマンが見れると嬉しくなりました。もちろん毎週欠かさず視聴していました。そこから今日まであの放送枠が続いてくれるとは思いもよりませんでしたが
19歳頃、専門学校と父の自殺失敗と就活
高校を卒業し、大学受験も上手くいかず一時ニートになりかけていました。流石にまずいと思い、3月時点でまだ募集をかけている学校を自宅から通えるとこで探しました。すると地元では有名なIT系専門学校(2年制コース)へ辿り着き3/31というギリギリのところで合格をもらい入学となりました。この選択が後に大きく影響してくるとは思いもよりませんでした
年上のクラスメイトや様々な諸事情を抱えて入学してきた人も数多く入学から不安でいっぱいだったと記憶しています。ですが、そのうちクラスにも馴染みITの授業も徐々に慣れていきました。自分は割と成績優秀者だったのと2年じゃ勉強し足りないという意志を伝え同学校の4年制コースへの編入をしたいと同年秋時点では考えていました
ところが同年12月中頃、突然ショッキングなニュースが舞い込んできました。父が道の途中(たしか高速道路だったはず)で社用車の中から意識不明の状態で発見されたとの事でその日の放課後病院へ直行しました。幸い一命を取り留め集中治療室で生きるか死ぬかの瀬戸際をさまよっていました。目を覚ましたのが2日目お見舞いに行った時でした。自分たち家族の姿を見るやいなや大粒の涙を流し弱々しい声で「ごめんなさい…ごめんなさい…」と謝罪していました。その時父は自殺を図ったのだと悟りました。
※父がどのような人生を歩みどのような経緯で自殺を図ったのかはこちらに記載します。
このような自体になり、もう家族には頼れない自立しなければならないと思い始め就職する道を望まない形ではありますが選ぶことになります。幸いにもこの専門学校はIT系と謳いつつも資格取得と就職に強いという宣伝文句も掲げているところだったので急な進路変更にも対応してもらいました
20歳頃、卒業と新卒
前年の出来事により就活への決意をしたものの気持ちは不安定でなかなか上手くいきませんでした。ハッキリ言って突然の出来事と社会人になるという覚悟も不十分でまともな判断や言動も出来ていたとは到底思えません
同年6月頃、学校斡旋の企業に就職が内定し11月早期入社に向けての準備を進めていくことになります
内定先は本社が東京にある大企業の子会社から派生したさらに子会社で千葉県の某所にある社員寮への引越しということも事前に聞かされていたのですが入社1週間前になり突然地元北海道への配属を言い渡され困惑と安心とが混ざったような複雑な気持ちでした
同年11月下旬、12月からのOJTに向けて新入社員研修のため本社のある東京へ行きました。同級生複数人と他県からの同年代や大卒、同期は30人ほど居たと思います。みんな配属先が東京や各地方、親元を離れる中自分だけ実家から通える場所であったのは幸運なのか不幸なのかこの時はまだ知る由もありませんでした
21歳頃~、地獄の日々とTwitterと転勤
配属先は北海道では有名な酪農系企業のIT系システムを担当する関連会社で最初はシステム機器等を24時間監視するオペレーターでした。職場環境は客先からは隔離された一室を間借りしたところにあり、先輩は八割型歳が親ほど離れたおじさんばかりで歳が近い先輩でも5歳上という職場環境で正直なところやりにくいと思いました。直属の上司である課長は自分と趣味が合いとても話しやすかった印象です。ですが問題はOJTを担当した先輩でした。仮にその人をキツネズミ(顔が三角形でネズミみたいに出っ歯なのでその呼び方で)と呼びます。自分より10歳ほど年上で笑い声が気持ち悪かったです。挨拶をして自分の顔を見るなり「君か」という何か言いたげな一言から始まり印象はあまりよくありませんでした。その直感は当たり仕事になるや否やオレの態度が気に入らないのか怒鳴りつけられ睨みつけられ散々な目に会いました。しかもオペレーターは3交代制で早い日は朝6時から夜は22時頃から仕事が始まり勤務時間も長い日には14時間会社に居ることもあり日に日に自分の心身は疲弊していきました。上司に相談してもまだ頑張れないか?まだ頑張れないか?と具体的な解決策など無く頼ろうにも頼りになりませんでした。
仕事を初めて1年くらいしてから母に仕事のことを泣きながら訴えました。最初は真摯に聞いてくれていましたが、最終的には自分の頑張りが足りないだのなんだの言われ結局自分が悪いのかと思うようになりました。
そんな憂鬱な毎日のある日の夜勤、キツネズミと言い合いになり勤務中にも関わらずバックれました。もう全てが限界でした。何もかも嫌になりこのまま仕事を辞めてやると思いました。身寄りも無いですがどこか遠くまで逃げてやろうと思いました。最終的に自宅へ戻り、1週間ほど休みを貰いました。上司との話し合いで退職はせず例の先輩とのシフトを可能な限り被らないようにするということで手を打ちました
何故いきなり入社1週間前に配属先が地元になったかというと自分が入社する1年前にも新入社員が1人入ったそうでその人はとても優秀で1年で東京へ転勤が決まり、その代わりに自分より1ヶ月前に入社した先輩(同期)が来たのですが入って2週間で退職し、急遽自分へ話が舞い込んだそうです。その時のOJT担当がキツネズミでした
それの影響なのかキツネズミのOJTも変な気合いの入り方をしたのか自分への当たりがかなり強く焦っていたのかもしれません
5歳上の先輩社員が新人の頃、当時飼っていたウサギが死に出勤日ではあるが墓を作りたいからその日は休みたいと申し出たそうですがキツネズミは「そんなことで休めないから出勤してこい」と笑いながら言ったそうです。その話を聞いた時に仕事は出来ても人間のクズだな。こんなやつと一緒に仕事なんてしたくない、こんなやつから学ぶことなんてひとつも無いと思いました
変化の無い日々といつまでも慣れない3交代で憂鬱に過ごした入社3年目、転勤が決まりました。入社しと当初から東京で働きたい、もっとも親元を離れたいと考えていたので念願でした。
同年5月にTwitterアカウントを作成。このブログだけでは広がらなかった世界が広がっていきました。
https://twitter.com/mantaro_npro?s=21&t=lxYD_FqCXeNV9AB3yCc1zg
24歳頃、新たな生活
社会人4年目にしてようやく上京しました。最初は空き状況の関係で神奈川県の郊外の社員寮に住んでいました。駅からは歩いておおよそ10分くらいで駅の周りにはイオンやコンビニちょっと離れたところにショッピングモールやホビーショップなどもあり住み心地は良かったですが会社からは1時間半掛かりもう少し近いところに住みたいと内心思っていました
転勤が決まったとは言ったものの具体的な配属先は確定していなかったのでしばらくの間、本社の研修室預かりで資格取得の勉強をしていました。2、3ヶ月経った頃に別の職場から自分と同じような人達が来る際に教育を任されたり新入社員の受け入れ後の教育を担当したり「これはオレの仕事なのか?」ということもやったりしました。ここで初めて自分に後輩が出来たのかと実感しました。前の職場では考えられないことでした
同年3月末頃、新入社員研修の引率の先輩社員の1人として抜擢されました。正直なところ仕事に関係の無い研修内容だったので個人的には乗り気ではありませんでした。わざわざ雪も溶けきっていない3月の山奥に1週間も行進練習のために合宿するとかこの会社頭おかしいのか?誰も疑問に思わずよくやってられるななんて思いながら研修していました
大量の新入社員を受け入れすっかり先輩となった5月下旬頃、自分の配属先が確定し同時に寮の引越しも言い渡されました。場所は都内の山手線圏内で今の自宅からも近い場所です。ここから新たな社会人生活がスタートしていくことになりました
最初の転勤先は秋葉原にオフィスを構える起業してまだ10年少々の若めの会社でした。同社の先輩が2名で完全に客先の中で働くという地元とはガラッと変わった職場環境でした。また、場所が秋葉原だったということもあり昼休みには職場を抜け出しホビーショップ巡りを毎日するというとても有意義な時間を過ごせたのも楽しかったです
25歳頃~、失恋と新たな出会い
こんな自分でも彼女というものが居た時期があります。専門1年の頃に同級生の紹介で別の学校の子と付き合いましたが突然別れを告げられたという苦い経験があります。ハッキリ言ってその子との思い出はよく思い出せません。強いて言うなら相手方の顔が魚みたいだったなと(別れて正解だったかもしれません)
Twitterを始めて彼女が出来た(といっても成り行き)のは前年で最初は特に意識もなんもしておらず相手方のことを声を聞くまで特撮好きの男だと思っていました(プロフィールには女と記載されていたのですがよく見ておらず)。その子が就職の関係で住んでるところから引越さねばならないとなった時、親元を離れたくない地元で働きたい寂しいなんて話をしていたのでつい勢いで「だったらオレが会いに行ってやる。それで寂しくないだろう」と言いました。遠距離恋愛となりましたが定期的に遊びに行ったりしましたが、なかなか進展せず自分は苛立ちを覚えたり向こうが一方的にLINE電話をしてきたりで気付かないうちに溝が広がっていきました。
同年のゴールデンウィーク突入前に電話口で喧嘩になり彼女から勢いで別れを告げられ自分もキレて怒り散らし最終的にTwitterをブロックされるまでになりました。今思い返せば冷静さを欠いていたとか、そもそも相手のことを何も知らずに付き合って自分らの理想を互いに押し付けあっていたとか色々後悔ばかりが残ります
そこから失恋のショックは私生活にまで影響が及び、仕事もミスを連発。1年半で転勤を命ぜられました。その年はあんまり生きた心地がしなく毎日心ここに在らずという精神状態で過ごしていました。体重も50キロ代から47キロ程まで落ちましたし…
そんな中、新たな女性との出会いもあったり自分を応援してくれる人も居たりして徐々に自分の自身を取り戻していきました。1番大きな影響を及ぼしたのが引退した某ウルトラ俳優との出会いです。彼は自分のことをかなり可愛がってくれて色んな話や色んな出会いの場を提供してくれたりもしました。彼に連れられて風俗へ初めて行ったこともあります(正直あんまりいい所ではありませんでしたが…)
そうして失恋からのショックに立ち直りいざその女性と良好な関係を築こうとした時に自分の当時の友人がその子と既に仲良くなりもう既成事実を作っていたのです。色々遅かったかとかもう少し早く立ち直っていればなんてここでも後悔しました。ですが相手はメンヘラらしく付き合わなくてよかったよと言われたので結果オーライです。(自分が付き合ってたらどうなっていたのやら)
27歳頃、転職とコロナ
秋葉原の職場から2回転勤を経験し社会人7年目の年、突如もうこの会社を辞めようと決心しました。理由はこれ以上やっても面白くない、これ以上この会社に居ても成長も何も無いただ窓際社員として腐っていく。新入社員の頃から辞めたい辞めたいって言い続けてましたからこれ以上はもういいだろうと思い退職しました。退職してからはしばらくの間、東京を離れて地方を色々遊んで周りたいと考えていたのですが辞めるタイミングで新型コロナウィルスの日本上陸と感染拡大防止による全国緊急事態宣言発令によりその計画はすぐに潰えてしまうのでした。
転職先はというと友人の紹介により警備員になりました。前の業界からは離れて新しいことに挑戦したいと考えていたので丁度いいタイミングでした。入りたての頃は日勤で工事現場の交通誘導だったり夜勤で施設の巡回だったり色んな現場に行って色んな人と出会い色んな知見を広げていきました。
29歳頃~現在、これまでとこれから
職場は常駐の施設現場で安定した収入で今が1番落ち着いています
ウルトラに関してはTwitterを見ていただけれ分かると思います
自分も遂に30代に突入しました。人生の先輩方から30過ぎて40まであっという間だよという言葉をよく聞いて若干不安に感じつつそれでも時間は巻き戻らないし前にしか進まないと思いながら生きていこうと思います。これまで関わった皆さん、これから出会う皆さん私宇留寅万太郎をよろしくお願いします