何も考えないこと よく考えること


宗教の極意に空とか、“無為にしてなせ”と老子の言葉があります。

無為というのは、こうしようと思ってするんじゃない、ああしようと思ってするんじゃない。

そのまま自然法爾(しぜんほうに)に無為にしてなせ、ということです。

どういうことが空であり、どういうことが無為にしてなすことなんだろう。

自分がしようと思わないで出来ることがないじゃないか。

自分が考えるからこそ出来るんだ。

だから自分が何も考えないで出来ようがないじゃないか、と思うわけですね。

それは本当に人間というものをよく知らないからです。

人間を本当に知ってくると、肉体の中に現われてくる想いというもの ━ 頭の中でゴチャゴチャと思う。

ああ今日はよい天気だろうか、雨は降りはしないかしら。

今家で誰がどうしているだろうか、とこう思う。

そういう想いと人間の生命(いのち)がそのまま法則に従って動いていくものとは違うんですよ。

例えば、今ここで話をきいているから、何も思いませんね。

だけど普通の場合は、家を出ると、家はどうなっただろう、ガスに火をつけっぱなしで来たかしら、どうかしら、と今思ったってどうしようもないことを思っているわけです。

人間はどうしようもないことを思っているわけです。

人間はどうしようもないことのほうを余計に思っているじゃないですか。

例えば来年子供が高校へ行くんだけれども、今どうしようと思っている。

今とやかく思ったってしようがない。

必要な時にその活動を開始すればいいわけでしょ。

だから大体頭の中の想いのほうは、本当の実体の身になるものが出てこないで、かすばっかり出てくる。

それなのに考えなきゃしかたがないと思っているわけ。

ところが達人になりますと、老子まではいかなくても、相当な人になれば、一日中いちいちガチャガチャ思わなくたって、そのままでスースー生きられるようになる。

それはどうしてかというと、生命の力というのは自然に動いているからなんです。

心臓が自然に動いているように、肺臓が自然に動いているように、胃腸が自然に動いているように、自然に動いているんです。

心臓の鼓動を自分で決めるわけにはいかない。

肺を自分で動かすわけにはいかない。

大生命の力が小生命になって動かしているわけです。

だからあらゆることが、本当は自然に動くのが原理なんですよ。

大神の生命の法則にのって動いているわけ。

その原理を知らずに、あたかも自然に動いているんじゃなく、自分で動かさなきゃ動かないような感じがしている。

子供なら子供の教育は、こうしなきゃ、ああしなきゃ、というわけで、あんまりかまいすぎて弱くしちゃったりする。

かまった人が善くなるかというとそうでもない。

野放しに放っておいても、丈夫になってピンピンしている子供もあるし、お金をかけて栄養だ栄養だとやっていても、弱い子もあるわけです。

人間がいちいち頭で考えて育てていいものならば、そうして育てた子供は必ず丈夫になって、必ず偉くならなければならないけれども、野放しにしたほうが丈夫になる場合があるし、それが多いかもしれない。

そうすると頭で考えてガチャガチャやったことが、果たして良いことか悪いことかわからないでしょ。

だからこの頭で考える想いというものと、人間の本然の姿、いわゆる大生命から来ている生命との動きというものとは違ってくるんです。

しかし本当は違っちゃいけないんです。

けれども人間が違わせちゃう。

それを業(ごう)というんですよ。

神の法則として動いている大生命の流れからはずれたことを、勝手にやっているのを業というんですよ。


     
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