「生は安全ではない」。
これは生の本性だ。
愛が存在するときには、
相手が去ってしまうかもしれない
という恐怖を抱いて、せいぜい苦しむことだ。
決して安全を図ってはいけない。
そうすれば愛は成長する。
恋人は死んでしまうかもしれないが、
それはどうしようもないことだ。
でもそれが愛を殺すことはない。
安全は愛を殺す。
愛というものは、もっと成長するものだ。
実際、もし人間が不死だったら、
愛は不可能になる。
考えてもごらん。
もし人間が不死だったら、きっと愛は不可能になるだろう。
もしあなたが不死だったら、
きっと人を愛するのは難しくなるだろう。
恋に落ちるというのはとても危険なことだ。
死はそこにあり、
そして生はまさに震える葉の上の露のようなものだ。
いつか風が吹けば、
露は下に落ちて消え去る。
生とはひとつのゆらめきだ。
そのゆらめきゆえに、
その動きゆえに、
死はつねにそこにある。
そのことが愛を強烈なものにする。
愛が可能なのは死があるからだ。
死があるからこそ、愛は強烈なものとなる。
考えてもごらん…もし自分の恋人が次の瞬間に死ぬとしたら、
意地悪もすっかり消え、争いもすっかり消える。
そしてこの瞬間が永遠となる。
そこには大いなる愛が現れ、
自分の全存在はそこに注ぎ込まれる。
ところが、恋人がずっと生きるとわかっていたら、急ぐ必要はなくなる。
それで争うこともできるし、愛の交歓を先延ばしすることもできる。
もし生が永遠なら、
もし体が不死なら、
愛することはできない。
インドには美しい神話がある。
インドラの治める天上には─インドラとは天上の王だ─愛が存在しない。
天上には美しい娘たちがいる。
地上よりもっと美しい娘たちだ。
そして神々がいる。
彼らは性交はするが、愛は存在しない。
不死だからだ。
それでインドの神話にはこんなものがたりがある。
天上の娘たちの筆頭であったウルバシが、インドラにこう願い出る─しばらくのあいだ地上に下って男を愛したいと。
「何と馬鹿なことを」、
インドラは言った、
「ここで愛せばいいではないか。地上にはこんなに美しい者たちはいない」。
ウルバシは言った、
「確かに美しくはありますが、みな不死です。だから魅力がありません。実際みな死んでいます」
実際、彼らはみな死んでいる。
なぜなら生き生きさせてくれる死がないからだ。
彼らはいつまでも生きる。
死ぬことができない。
だから生き生きしようがない。
死は生がに対立して存在する。
人間が生きるのは、
死がつねにそこにあって、
戦いを交えているからだ。
死という背景があってこそ、生は存在する。
それでウルバシは言った、
「どうか地上に行かせてください。誰かを愛したいんです」。
その願いは許され、彼女は地上に降りた。
そしてプルルーワという若者と恋に落ちた。
でもインドラはひとつ条件をつけた。
その条件とはこうだ─地上に降りて誰かと恋をするのはかまわないが、
その恋の相手に自分の正体を質問させてはいけない。
これは愛においては難しい。
愛は何でも知りたがる。
恋人のすべてをだ。
ひとつの未知も残しておけない─秘密という秘密のすみずみまで調べ上げる。
そこでインドラは巧妙にも、ウルバシにはわからないような条件をつけたのだ。
それで彼女は言った、
「わかりました。相手には言っておきます─私のことを知りたがらないように、私が誰だか尋ねないように、と。
もし尋ねられたら、すぐに相手のもとを去り、天に帰ります」。
それで彼女はプルルーワに言った、
「決して私のことを尋ねてはいけません─私が誰かなどと。もし尋ねたら、その場で地を離れます」
でも愛は何でも知りたがる。
このように言われたから、プルルーワはますます彼女のことをしりたくなった。
眠ることさえできない。
ウルバシのことを眺めながら、いったい誰だろうと…。
彼女はたいそう美しかった。
まさに夢のようで、地上のものとは思えなかった─実体があるように見えなかった。
多分、どこか別なところからやってきたのだろう、
どこか未知の次元からやってきたのだろう。
そこでますます知りたくなった。
でも同時に、ますます恐れるようになった。
彼女がいつ去るかわからないからだ。
その恐れが高じ、夜眠りに就くときには、手に彼女のサリー端をつかんで眠るようになった。
彼には自信がなかった。
いつ自分が尋ねるかわからなかった。
その問いはいつも自分の中に存在していた。
寝言で尋ねるかもしれない。
「寝言でも尋ねてはいけない」とウルバシに言われていたのだ。
それで彼は手にサリーの一端を握って眠った。
ところがある夜、もうがまんができなくなった。
そして思った─彼女は自分のことをたいそう愛している、だから去りはしないだろう。
そして彼は尋ねた。
それでウルバシは去らざるをえなかった……サリーの一端だけプルルーワの手に残して─。
伝えによると、彼はまだ彼女のことを探し続けているという。
天上では愛は存在できない。
なぜなら生が存在していないからだ。
生が存在するのは、死が存在するこの地上だ。
安全が確保されたとたん、つねに生は消え失せる。
だから危険なままで居るしかない。
それこそがまさに生の本質だ。
それについてはどうしようもない。
そしてそれはすばらしい。
不死というものを考えてごらん。
生はまったく無意味になる。
生の意味は死とともに現れる。
愛が意味を持つのは、
愛がいつなくなるかわかないからだ。
それで愛は脈打ち、
ゆらめき、
鼓動する。
いつなくなるかわからない。
確実なことは何もない。
明日はどうなるか何もわからない。
もう消え去っているかもしれない。
恋人を愛するならば、
明日というものが決してないつもりで愛することだ。
そうすれば愛は強烈になる。
だからまず、生を安全にしようという努力を引っ込めることだ。
引っ込めることによって、
自分をめぐる壁は落ちる。
そして初めて、雨が直接自分に降るのが感じられる。
風が直接自分に吹くのが感じられる。
太陽が直接自分に昇るのが感じられる。
あなたは大空のもとにいる。
それはすばらしい。
もしそれが悲惨なものに感じられたとしたら、
それは牢獄に慣れ親しんでいるせいだ。
だからこの新しい自由に親しむことだ。
この自由によって、あなたはもっと生き生きとなり、
溢れ出し、オープンになり、豊かになり、光り輝くようになる。
でも光り輝けば輝くほど、また、
生の頂点が高ければ高いほど、
死はいよいよ深くなる。
それはあなたのすぐそばにある。
高く昇れるのは、死との対照があってこそだ。
死の谷に対してこそだ。
生の峰と死の谷は、つねにそばにあって均衡している。
ニーチェの断章の中にたいへん宗教的なものがある、
いわく、「危険に生きよ」。
積極的に危険を求めよということではない。
すすんで危険を求める必要はない。
そうではなく、
防御せず、
自分のまわりに壁をめぐらさず、
自然に生きる─。
それは危険なことだ。
充分に危険だ。
これは生の本性だ。
愛が存在するときには、
相手が去ってしまうかもしれない
という恐怖を抱いて、せいぜい苦しむことだ。
決して安全を図ってはいけない。
そうすれば愛は成長する。
恋人は死んでしまうかもしれないが、
それはどうしようもないことだ。
でもそれが愛を殺すことはない。
安全は愛を殺す。
愛というものは、もっと成長するものだ。
実際、もし人間が不死だったら、
愛は不可能になる。
考えてもごらん。
もし人間が不死だったら、きっと愛は不可能になるだろう。
もしあなたが不死だったら、
きっと人を愛するのは難しくなるだろう。
恋に落ちるというのはとても危険なことだ。
死はそこにあり、
そして生はまさに震える葉の上の露のようなものだ。
いつか風が吹けば、
露は下に落ちて消え去る。
生とはひとつのゆらめきだ。
そのゆらめきゆえに、
その動きゆえに、
死はつねにそこにある。
そのことが愛を強烈なものにする。
愛が可能なのは死があるからだ。
死があるからこそ、愛は強烈なものとなる。
考えてもごらん…もし自分の恋人が次の瞬間に死ぬとしたら、
意地悪もすっかり消え、争いもすっかり消える。
そしてこの瞬間が永遠となる。
そこには大いなる愛が現れ、
自分の全存在はそこに注ぎ込まれる。
ところが、恋人がずっと生きるとわかっていたら、急ぐ必要はなくなる。
それで争うこともできるし、愛の交歓を先延ばしすることもできる。
もし生が永遠なら、
もし体が不死なら、
愛することはできない。
インドには美しい神話がある。
インドラの治める天上には─インドラとは天上の王だ─愛が存在しない。
天上には美しい娘たちがいる。
地上よりもっと美しい娘たちだ。
そして神々がいる。
彼らは性交はするが、愛は存在しない。
不死だからだ。
それでインドの神話にはこんなものがたりがある。
天上の娘たちの筆頭であったウルバシが、インドラにこう願い出る─しばらくのあいだ地上に下って男を愛したいと。
「何と馬鹿なことを」、
インドラは言った、
「ここで愛せばいいではないか。地上にはこんなに美しい者たちはいない」。
ウルバシは言った、
「確かに美しくはありますが、みな不死です。だから魅力がありません。実際みな死んでいます」
実際、彼らはみな死んでいる。
なぜなら生き生きさせてくれる死がないからだ。
彼らはいつまでも生きる。
死ぬことができない。
だから生き生きしようがない。
死は生がに対立して存在する。
人間が生きるのは、
死がつねにそこにあって、
戦いを交えているからだ。
死という背景があってこそ、生は存在する。
それでウルバシは言った、
「どうか地上に行かせてください。誰かを愛したいんです」。
その願いは許され、彼女は地上に降りた。
そしてプルルーワという若者と恋に落ちた。
でもインドラはひとつ条件をつけた。
その条件とはこうだ─地上に降りて誰かと恋をするのはかまわないが、
その恋の相手に自分の正体を質問させてはいけない。
これは愛においては難しい。
愛は何でも知りたがる。
恋人のすべてをだ。
ひとつの未知も残しておけない─秘密という秘密のすみずみまで調べ上げる。
そこでインドラは巧妙にも、ウルバシにはわからないような条件をつけたのだ。
それで彼女は言った、
「わかりました。相手には言っておきます─私のことを知りたがらないように、私が誰だか尋ねないように、と。
もし尋ねられたら、すぐに相手のもとを去り、天に帰ります」。
それで彼女はプルルーワに言った、
「決して私のことを尋ねてはいけません─私が誰かなどと。もし尋ねたら、その場で地を離れます」
でも愛は何でも知りたがる。
このように言われたから、プルルーワはますます彼女のことをしりたくなった。
眠ることさえできない。
ウルバシのことを眺めながら、いったい誰だろうと…。
彼女はたいそう美しかった。
まさに夢のようで、地上のものとは思えなかった─実体があるように見えなかった。
多分、どこか別なところからやってきたのだろう、
どこか未知の次元からやってきたのだろう。
そこでますます知りたくなった。
でも同時に、ますます恐れるようになった。
彼女がいつ去るかわからないからだ。
その恐れが高じ、夜眠りに就くときには、手に彼女のサリー端をつかんで眠るようになった。
彼には自信がなかった。
いつ自分が尋ねるかわからなかった。
その問いはいつも自分の中に存在していた。
寝言で尋ねるかもしれない。
「寝言でも尋ねてはいけない」とウルバシに言われていたのだ。
それで彼は手にサリーの一端を握って眠った。
ところがある夜、もうがまんができなくなった。
そして思った─彼女は自分のことをたいそう愛している、だから去りはしないだろう。
そして彼は尋ねた。
それでウルバシは去らざるをえなかった……サリーの一端だけプルルーワの手に残して─。
伝えによると、彼はまだ彼女のことを探し続けているという。
天上では愛は存在できない。
なぜなら生が存在していないからだ。
生が存在するのは、死が存在するこの地上だ。
安全が確保されたとたん、つねに生は消え失せる。
だから危険なままで居るしかない。
それこそがまさに生の本質だ。
それについてはどうしようもない。
そしてそれはすばらしい。
不死というものを考えてごらん。
生はまったく無意味になる。
生の意味は死とともに現れる。
愛が意味を持つのは、
愛がいつなくなるかわかないからだ。
それで愛は脈打ち、
ゆらめき、
鼓動する。
いつなくなるかわからない。
確実なことは何もない。
明日はどうなるか何もわからない。
もう消え去っているかもしれない。
恋人を愛するならば、
明日というものが決してないつもりで愛することだ。
そうすれば愛は強烈になる。
だからまず、生を安全にしようという努力を引っ込めることだ。
引っ込めることによって、
自分をめぐる壁は落ちる。
そして初めて、雨が直接自分に降るのが感じられる。
風が直接自分に吹くのが感じられる。
太陽が直接自分に昇るのが感じられる。
あなたは大空のもとにいる。
それはすばらしい。
もしそれが悲惨なものに感じられたとしたら、
それは牢獄に慣れ親しんでいるせいだ。
だからこの新しい自由に親しむことだ。
この自由によって、あなたはもっと生き生きとなり、
溢れ出し、オープンになり、豊かになり、光り輝くようになる。
でも光り輝けば輝くほど、また、
生の頂点が高ければ高いほど、
死はいよいよ深くなる。
それはあなたのすぐそばにある。
高く昇れるのは、死との対照があってこそだ。
死の谷に対してこそだ。
生の峰と死の谷は、つねにそばにあって均衡している。
ニーチェの断章の中にたいへん宗教的なものがある、
いわく、「危険に生きよ」。
積極的に危険を求めよということではない。
すすんで危険を求める必要はない。
そうではなく、
防御せず、
自分のまわりに壁をめぐらさず、
自然に生きる─。
それは危険なことだ。
充分に危険だ。