私は中学時代に、『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』という映画を観て以来、学生から学徒出陣を経て特攻隊に志願された方達に、とても関心がありました。

 

 高校受験の勉強をしながら、「ゆくゆくは大学にも進学したい」と漠然とながら考えていた私は、「戦争に行く前は普通の学生だった」という出陣学徒に、現代社会との接点を感じていたのです。

 実際、学徒出陣によって軍隊に行かれた方達というのは、お話する中に「どこかに学校のキャンパスの雰囲気を漂わせている方」が多かった気がします。

 

 織茂 領 先生


 昭和18年9月、横浜国から志願。学徒出陣で予備学生13期へ。


 予備学生13期は全部で5199名。

 そこから三重航空隊と土浦航空隊に別れて、織茂先生を含む800名は、霞ヶ浦の漁港を改造した土浦海軍航空隊水上基地転属となります。


波があるので、陸上よりも水上から飛び立つ方が難しい」。

多くの方からお聞きした言葉ですが、織茂先生はここで水上機訓練を受けられました。

 

 そして昭和19年5月に実用機教程を卒業し、少尉となって教官配置を命じられま


 そこは愛知県の知多半島先端にある第二河和海軍航空隊で、織茂先生は隊内部の綱紀粛正を図る「衛兵隊」に所属されました。


 以下、織茂先生のお話。


 …第二河和海軍航空隊で私は先任分隊士として、生徒の指導にあたりました。

 それまではビンタやバッター制裁(バットでお尻を全力で叩く事)が行われていました。


 私も隊長に指示されて、71名の生徒を二列に並べて1人につき2発のビンタをしました。

 だが、「これは何の為にやるのか」と。

 私は制裁禁止を、司令に進言しました。

 部隊では今までやって来たので、これが当たり前と思っている。

 しかし、「制裁」と「指導」は違います。

 力を付ける事が大事なのです。殴るのではなく、「走って来い」と。

 これは戦後、私が学校に勤めてからも役に立ちました。

 

 ある時、ある練習生が憧れの単独飛行に成功し、帰着した時の事。

 整備兵が水上機の向きを変えた後に、練習生は尾翼側から降りる事になっているのに、うれしさの余りかその練習生は、プロペラが回っている前に出て、頭をはねられました。

 

 そして、駆けつけたお母様と弟さんに看取られて亡くなりました。

 二人兄弟の長男でしたが、弟さんが「お兄ちゃんの仇を討つ」と言っていたのが忘れられません。

 第二河和海軍航空隊は全部で200〜300人ですが、任官している士官は、全員が特攻志願です。もちろん、私もです。

 「いざとなったら行きます」と、ハンコを押しました。


 その後私は昭和20年、名古屋海軍航空隊に転属となり、艦上偵察機『彩雲』の搭乗員として、鈴木部隊の所属になりました。

 「我に追いつく敵機なし」の『彩雲』は、偵察機の中では一番速かったです。


 終戦時、鈴木部隊は第二郡山航空隊に移っていましたが、そこで隊長以下30数名で切腹し、最期を飾ろうと思っていました。


 しかし隊長が茶碗に一杯ずつ注ぎ、


 「お前達の切腹は俺が預かる。お前達は若い。生きて家族の元に帰り、日本を立て直せ」


と、言われたのです。

 それで全員で乾杯をし、生き残る決意をしました。


 …との事でした。

 余談ですが私は織茂先生のこの、上官から言われた「切腹を預かる」という言葉が、心に残りました。

 

 織茂先生は戦後、1~2ヶ月は何も手が付けられずに過ごしていましたが、地元小学校の校長先生から母校に勤めるように勧められ、昭和20年10月から母校・日吉台小学校の教壇に立ちます

 

 その後、綱島小学校校長等を経て、横浜市教育委員会に出向。

 それから、病院からの依頼を受けて自ら名乗り出て、養護学校の校長先生にも就任されました。

 以下、再び織茂先生のお話。


 …私は生き物が好きだったので、鳥や猿などの飼育を通じて、命を大切にする教育を心がけていました。

 学校でのいじめ問題も当事者とじっくり話し合い、双方を納得させる事で乗り越えて来ました。

 

 …との事でした。

 そして織茂先生は、昭和61年5月には保護司としての役目も引き受けます。

 法に触れたり、罪を犯した人を立ち直らせる手助け役が、保護司の役目です。

 織茂先生はここで、中学卒業を目前に控えていじめ問題を起こしていた非行少年を引き受けたのです。

 以下、再び織茂先生のお話。

 

 …学校に連絡して非行仲間全員に会わせてもらい、一人ずつ面接し、「いじめられっ子を友達として守ってやって欲しい」と頼んだら、皆素直に承諾してくれました。

 何回かの面接の後に卒業式を迎えても私も呼ばれましたが、内心不安でした。


 式が始まると、私が担当していた生徒が一番先に名前を呼ばれ、元気に大きな声で返事をして壇上で卒業証書を受け取り、後に続く仲間達も立派な態度で式を終えました。


 式場を出た彼らは中庭に集まっていたので私は駆け寄り、立派な態度だった彼らに「卒業おめでとう」と、一人一人に握手しましたが、これは今でも忘れられないです。

 

 …感動的なお話です。

 特攻隊として国に殉ずる覚悟でいた織茂先生は戦後は一貫して教育畑を歩まれ、2015年の時点で、


・横浜国立大学同窓会 顧問

・全国病弱・養護教育学校PTA連合会 顧問

・全国特別支援教育推進連盟 顧問

・全国病弱虚弱養護学校退職校長会 顧問

・横浜市教育委員会指導主事OB会 顧問


として一段高い所から後進の指南役を務めていますが、ご覧の通り養護や支援が必要な生徒への訓導が主になっています。

 

 そんな所にも、弱者をいたわる織茂先生の博愛精神を垣間見る思いがします。

 

 しかし繰り返しますが、織茂先生は特攻隊の生き残りです。

 お部屋には、木刀や軍艦旗その他、海軍ゆかりの品々が所狭しと飾ってありました。


「先生の心の中では、烈々たる海軍精神はいまだ健在なんだ…」

私は心を揺さぶられました。

 

 弱者をいたわる博愛精神と、死んででも強者に立ち向かう特攻精神…。

 一見相反する両者は、織茂先生の中で表裏をなしているのだと思います。


 …昔を思えば、今の世の中は最高です。いつまでも、この平和が続いて欲しいと思います。

 戦うなら、武器ではなくボールを持ってスポーツで戦えばいいんです(笑)

 

 …最後に笑顔で語ってくれた一言が、印象的でした。

 現代では想像も出来ない様な苦しみを生き抜いて来たその歴史が、織茂先生の笑顔の中のしわ一つ一つに年輪として刻まれてる気がいたしました。

 

 過酷な戦争体験で培った、「正しいと思った事は、とことん突き進む」という織茂先生の姿勢は、特攻隊の昔も戦後も、常にずっと変わらなかった…。