各人の内心に巣食う
「大正デモクラシー的要素」を廃せ
日本を再生するには、原点回帰と復古しかない
現代の「個人の自由」が絶対化した価値観というのは、宇宙から自分を切り離して部分化する事によって、自分を包んでくれる大きなものから自ら離れていく思想であり、「我思う故に我あり」の「我」が絶対化した近代の祖・デカルトを始祖とします。
つまり、宇宙中心生命から個人を切り離して、個人を絶対視するのが現代の個人主義。
それでもキリスト教の伝統がある西洋人ならいざ知らず、そういった土壌がない日本に個人主義を上滑り的に導入しても、誤解・曲解が生まれます。
だから、個人を重んじる思想を西洋から直輸入的に受け入れた我が国のインテリは、その超「個人的」なる民族の大生命を一顧だにしない。
その絶対化された「我」や「個人」から導かれた人間の理性なんて、人間存在の一部分に過ぎません。
「大正デモクラシー的要素」を廃せ
日本を再生するには、原点回帰と復古しかない
「国家は敗戦で滅びない。
国民が国家の魂を失った時に滅びる」
ドイツ帝国宰相 ビスマルク
我々の命は、幾千年前からの民族生命の延長にあります。
故に我々は、他から隔絶された絶対的な存在として、即ち、単なる「個人」として存在するのではありません。
単なる「個人」 より以前に「その個人」を超越する悠久な歴史、民族生命が存在している。
デカルト以来の「我」「個人」が絶対化した考え
我々の命は、幾千年前からの民族生命の延長にあります。
故に我々は、他から隔絶された絶対的な存在として、即ち、単なる「個人」として存在するのではありません。
単なる「個人」 より以前に「その個人」を超越する悠久な歴史、民族生命が存在している。
デカルト以来の「我」「個人」が絶対化した考え
現代の「個人の自由」が絶対化した価値観というのは、宇宙から自分を切り離して部分化する事によって、自分を包んでくれる大きなものから自ら離れていく思想であり、「我思う故に我あり」の「我」が絶対化した近代の祖・デカルトを始祖とします。
つまり、宇宙中心生命から個人を切り離して、個人を絶対視するのが現代の個人主義。
それでもキリスト教の伝統がある西洋人ならいざ知らず、そういった土壌がない日本に個人主義を上滑り的に導入しても、誤解・曲解が生まれます。
だから、個人を重んじる思想を西洋から直輸入的に受け入れた我が国のインテリは、その超「個人的」なる民族の大生命を一顧だにしない。
これらの理想崇拝の近代主義者は、その個人を絶対視し、全体から切り離される事を進歩と勘違いしています。
その絶対化された「我」や「個人」から導かれた人間の理性なんて、人間存在の一部分に過ぎません。
「我」や「個人」を越えた民族の根源たる大生命を失った者は、線香花火の如く消え去ります。
近代的な個人主義においては、個人の能力を最大限発揮する事が称揚されるが(例えば「成功哲学」)、そこでは裏返しで、先祖とか民族とか伝統というものを、個人の活力を阻害する要因と見做していないでしょうか。
近代的な個人主義においては、個人の能力を最大限発揮する事が称揚されるが(例えば「成功哲学」)、そこでは裏返しで、先祖とか民族とか伝統というものを、個人の活力を阻害する要因と見做していないでしょうか。