最終決戦として日本本土に上陸する米軍を、海岸線で迎え撃つ特攻隊…。

湾内に侵入した米艦隊を、上陸3日前から水中・水上・空中の三段構えの特攻作戦で迎え撃ち、上陸初頭に敵の士気を阻喪させる。
そしてやっと上陸しても、まだ武器弾薬・人員を揚陸したばかりで態勢が整っていない海岸線の敵軍に対し、こちらはありったけの砲火を浴びせて、上陸第一夜に歩兵の総突撃を行い、我が方得意の白兵戦に持ち込む。
 
敵味方が入り乱れた接近戦になれば、敵は同士討ちを恐れて重火器が使えません。
これにより、敵の有利な機動力を完全に封殺。

その間に、後方に待機していた主力部隊にして日本陸軍最後の切り札、決勝兵団と呼ばれた決戦機動兵団・第36軍を投入し、敵に決戦を強要します。

「先に相手が原爆を使ったので、遠慮はいらない。こちらも毒ガス兵器も使う。
これらの攻撃により、少なくとも敵の上陸第一波は粉砕出来る。確実に出来る」

私が複数の軍人からお聞きした言葉です。
ではそれからは?

「そこからは徹底的な持久ゲリラ作戦。
しかし、上陸第一波で粉砕されたら、敵もそれ以降は及び腰になる。
アメリカは世論の国。人命重視の国。上陸初頭でそこまで損耗を受けたら、世論が黙っていない」

これ私が聞いた本土決戦構想です。

安藤高視 先生

昭和4年(1929年)生まれ。
昭和19年9月に水戸商業高等学校から、予科練に志願。甲飛15期。奈良県天理市で入隊されました。

そして丹波石から昭和19年12月2日に清水航空隊へ配属となり、昭和20年5月に特攻艇『震洋』の第16嵐突撃隊へ…。

第16嵐突撃隊は、神奈川県の相模湾と静岡県の駿河湾に配属となり、敵の上陸に備えます。

当時、伊豆半島の周りは本土決戦に備えて、(震洋だけではなく)多数の特攻基地が設けられ、米軍の来寇を待ち構えていたのです。

しかし、第16嵐突撃隊では、震洋5隻に対して特攻要員は50人。
つまり、特攻志願者はいても特攻艇が足りない状況です。
17歳の安藤先生は、その中のお一人でした。

安藤先生のお話
2015年インタビュー 86歳

予科練の鉄拳制裁なんて、半端じゃないよ(笑)
「歯を喰いしばれ」と言って、アゴを殴るんです。
一番凄かったのが、木のバットで思いっ切り新人のケツを叩くんだけど、最高で一人で62発殴られた事があるよ。一ヶ月間、寝たきりになってたね。

カチンカチンに凍ったロープで殴られたりとか、「罰直」と言ってミンミンゼミの真似を強いられたりね…。
自分がやられたから、下の人間にもやるという悪しき伝統だね…。

海兵出はやらなかった。
海兵は余り実戦経験なかったよね。実戦経験者は下士官が多かったです。
でもやはり、実戦経験者は貫禄ありましたよ。

あと、戦後、マッカーサーがノーネクタイで腰に手を当てて、天皇陛下の横に立っている写真あるでしょ? 
あれには頭に来たよね…。
「何て失礼な態度だ」と。
戦時中は(「天皇陛下」と口にする時は)かかとをカチンとやっていましたから、水戸に陛下がいらした時にも、自然と頭が下がりましたね…。

とにかく、戦後は世の中がガラリと変わっちゃった。
マナーとかは、昔の方がしっかりしていました。
人と人とがスレ違う時なんかも、パッと傘をかしげたりとか、ね。
ただ、それでも昔よりは今の方がいいです。

… 安藤先生は昭和26年から平成元年まで立川の米軍基地に勤務。
米国空軍大学に訓練に行かれた事もあり「日本の企業に勤めた事は無い」との事です。
また長い間ダンスの指導をされ、サングラスをかけて髪型も決めて、もう見た目からしてお洒落です。

戦後は大学に進まれたとの事ですが、お若い頃のお話を聞いていると、遊び方にせよ何にせよ、当時としては流行の最先端にいたという事がわかります。

先生のこの見た目と感性ですから、「さぞや女性に人気があっただろう」と、下衆な勘ぐりをした私は、思い切ってその辺の事もお伺いしました。
先生の答えは…ご想像にお任せいたします(笑)。
 
しかし安藤先生は、これだけ外見がファッショナブルで行動がアメリカンナイズされていても、その根底には、若き日に予科練と特攻隊で培われた烈々たる海軍精神と大和魂があり、見えない所で日本男児としての筋が一本通っている。
ご本人は謙遜されるでしょうが、それが私が、安藤先生の好きな所と言うか、尊敬する所です。