※①の続き

佐伯正明 先生の物語

水上機出身の佐伯先生達は、部隊到着の翌日から「風向きをあまり気にしなくていい」陸上機(零戦)での訓練を開始します。

佐伯先生が新たに気付いた事は「零戦は水上機よりも非常に軽快な運動性を持つ」という点です。 

そして佐伯先生達は、一式陸攻に懸吊した『桜花』での投下訓練の前に、零戦五二型での滑空訓練を開始します。
 
いきなり『K1』での実地の投下訓練とはならず、まず零戦五二型での飛行訓練を終えてから『桜花』に搭乗します。 

最初は400メートル、その次は1000メートル。最後は3000メートルからの滑空。

訓練は日増しに激しさを増し、古い搭乗員達から『桜花』での投下訓練に入る事になりますが、この時点ではまだ佐伯先生は零戦五二型での訓練です。

その後、佐伯先生は訓練で昭和19年12月に大分航空隊に向かい、一週間ほど滞在する間、連日の様に豊後水道上空での零戦での訓練に従事。

ここでは、暗いうちからエンジンを温めて早朝から訓練開始です。
一番機、二番機、三番機と飛び立ち、佐田岬沖の目標艦に向かって海上を舞って頭上スレスレで飛び去るという訓練を積んで、一週間後に大分から再び茨城県の神之池基地に戻りました。

明けて昭和20年正月。
ここで上層部の方針が変わります。

実戦経験があって、かつ技量のある戦闘機乗りは、
(特攻で)一発で殺すより、生かして使う方が得策と考えたらしく、戦闘機専修の者だけで『桜花戦闘機隊』が編成されました。

つまり、戦闘機専修で腕のいいパイロットは一回限りの特攻ではなく「特攻機を護衛する戦闘機に乗って何回でも出撃してもらう」という意味です。

水上機から来た佐伯先生は「一回限りの特攻」の側ですが、このときの心境をこう語っています。

…どっち道、お互いに道は違っても生命は無いのだ。
敵機グラマンを落とすより、自分一人で何千人の乗員と、艦内の予備機を含めて、百機ものピカピカの飛行機を巻き添えにして、天下の母艦と心中する方が、どれだけ死に様としてよいか(月刊『丸』より)。

壮絶な心意気です。

そうこうするうちに、南九州・宮崎基地への第一次進出要員として170名が決定します。
もちろん、佐伯先生もこの170名の中に含まれています。
この時点でも先生は『桜花』での投下訓練を行っていませんが、どたん場で「希望」が叶います。

昭和20年1月17日。
先生にとって『桜花』での初の投下訓練です。

いよいよやるらしい。とうとう落とされるのか。
心はもとより全身に一度にブルッと来るのがハッキリわかった(月刊『丸』より)。

※③に続く