※②の続き


東江芳隆 先生

昭和18年10月10日、
台湾第85部隊(陸軍兵器補給廠)に給仕として就職。
昭和19年5月25日、海軍・佐世保海兵団に入団。
昭和19年9月15日、横須賀海軍工機学校に入校。
昭和20年1月15日、同校卒業。
昭和20年2月14日、海軍・第951航空隊護部隊に配属。

※時間がさかのぼりますが、那覇は昭和19年10月10日に敵の猛烈な空襲を受けました。
世に言う「十・十空襲」です。
そのすぐ後に(これは東江先生の新情報なのですが)、沖縄本島北部の運天港と本島南部の糸満に、沖縄出身の日系二世で編成された米兵の間諜(スパイ)が相当数、上陸したそうです。
この点については、後世の研究に期待します。

「海軍へ志願したのは、国の緩急に男として参加できないのは恥ではないか、兵隊にあらざれば男にあらずという時代だったので、遅れてたまるか、負けてなるものかという強い意志だった為です」

東江先生が配属となった第951航空隊護部隊(司令・羽田次郎大佐)の総兵力は800名。
航空隊と言っても、野原の真ん中に軍艦旗が翻り、実体は野戦部隊でした。

「私は、いよいよ沖縄決戦か、くそ、ヤンキーの野郎ども!と攻撃精神旺盛で、勝たずんば止まじの海軍魂で気合が充満していた」

バックナ―中将率いる米軍上陸部隊は、昭和20年4月1日に本島中西部に上陸を開始。

「特攻機が突入する前に首里上空に来て、旋回しながらバンク(翼を横に振る動作)するんです。
中には、クルクルと一回転している機もありました。
地上の友軍と司令官に対し、空から最期のお別れをしているんですね…。
我々兵隊には、その気持ちが胸に突き刺さるんです。
こちらとしては、もう、わかった、わかったという気持ちでした。今生の別れですからね。
見送る方も皆、涙ですよ。
そして特攻機は最期の別れをした後に、きびすを返して今度は猛然と沖合いの敵艦に向けて、物凄い対空砲火の中を体当たりして行きました。
兵隊も市民も、洞窟という洞窟からみんな顔を出してその行方を眺めていましたね。
火柱が何本か上がると、やったぁと手を叩いて万歳を叫び喜び合いました」

圧倒的な物量を誇る米軍は、東江先生達が待ち構えている防衛線にいよいよ侵攻。
こちらは敵軍を次々と粉砕しました。

「我が方の鏡地砲台からの砲撃威力は、敵を狼狽させるに十分なものでした。
しかし、敵の物量にものを言わせた戦闘ぶりには歯が立たない。
友軍は作戦を練る事すらできない。ただ肉薄攻撃の大和魂があるだけ」

昭和20年(1945年)5月末。

米軍が南下して戦線がいよいよ後退したので、東江先生は小禄の海軍陸戦部隊の退却に関する受け入れ準備の調査先発隊として、梅雨時のドシャ降りの雨と降り注ぐ艦砲の中を、南部に向けて出発しました。
途中には、脳みそが無くなったり、手足が吹き飛んでいる陸軍の兵隊さんをたくさん見かけます。

その頃は第32軍司令部の南部撤退決定により、各病院(と言っても壕)にいた幾百・幾千の負傷兵の方達も、豪雨と艦砲の中をひめゆり学徒隊と共に南部に撤退し始めていた時期です。

東江先生はその頃になると、
「立って歩くのが不可能になり、四つん這いするようになった。
初めて体験する事なので死ぬのではないかとも思った。
あまりにも辛いので、艦砲が飛来して死ぬなら死ぬ、どうせいつかは死ぬ身だと諦め、身を隠すことすらしなかった」

その後、先生達は小禄に復帰。

「その時私は心に誓った。沖縄は故郷だ。
骨を埋める事は覚悟している。何時何処で死んでも本望であると。
その事を思い出すと勇気が涌いてきた。
それからというのは勘が働き、大胆な行動か出来るようになった。
嘉手納沖からの艦砲射撃にも弾をよける勘が完全に働いてきた」(『大きな綱』)

凄い話です。
結局、小禄の海軍陸戦部隊は、一度小禄を脱出して南部に撤退したにも関わらず、また小禄への復帰命令が出たのです。

※④に続く