呉正男 先生


台湾ご出身の特攻志願兵

昭和2年(1927年)台湾生まれ。

 
呉先生は小学校卒業後、東京の中学に留学。
昭和19年(1944年)4月に志願して陸軍特別幹部候補生一期生として水戸航空通信学校に入学します。

その後、滑空飛行第一戦隊に配属。
この戦隊は、九七式重爆撃機が歩兵20名分のグライダーを曳航して敵地上空で切り離しそのままグライダーを強行着陸させるという、歩兵の決死的空挺隊です。

この部隊は、米軍の空襲を避ける為に北朝鮮の宣徳飛行場に移動します。

呉先生は、生きて還れぬこの特攻隊に「熱望」と書いて志願して、共に米軍占領下のサイパンもしくは沖縄への出撃をうかがっておりました。

しかし制空権がない状態での出撃は、ほとんど不可能でした。

終戦後、ソ連によってカザフスタンの半砂漠地帯に2年間抑留され、辛酸を嘗め尽くした後に、舞鶴港に復員されました。

以下、呉正男 先生のお話
2024年 96歳時のインタビュー

飛行機がグライダーを曳航して、後は切り離す。
第一陣は、地上戦が終わった沖縄に行く、とね。
(この挺身特攻隊の志願書に)「志望」「熱望」「熱烈望」とあって「熱烈望」に◯したよ。

ビックリするほどの事じゃない。
「ああ、順番が来たかな」という程度の事だよ…。だって、あっちこっちで仲間がね…。

私の一番の幸せは、ソ連抑留よ。
と言ってもマイナス25度以下は仕事しなくていい。

これがなかったら、私は台湾に帰って内戦に巻き込まれて死んでたと思う。
蒋介石の台湾の戦いはね、少しでも赤かったら銃殺だから。
そういう事に巻き込まれないで、戻って来て今日がある。有難い事です。
何事も神仏のお陰です。

あと私が言及したいのは、共に日本の為に戦った台湾人 元日本兵への戦後補償です。

最も話題になるのが、モロタイ島で発見された台湾人の中村輝雄さんへの支給金です。
彼の30年間の未払い給与と帰還手当てとして、日本政府は7万円を支給しました。

一方、先に発見された横井庄一さんと小野田寛郎さんに対しては、未払い給与と見舞金2,000万円。
ならびに軍人恩給の未払い金を支給しました。

台湾人元日本兵の戦死者に対する保証金は昭和63年にやっと、『台湾住民である戦没者遺族などに対する弔慰金に関する法律』が成立し、200万円の支給が決まりましたが、こうした差別をするのは、恥ずかしい事だと思います。
(これは私横沢も知りませんでした。日本の為に戦ってくれた台湾の方に対し、大変失礼な事です)

Q.大日本帝国軍人として戦われた誇りは今でも…。

A.もちろん。軍人というだけでなく、僕は飛行兵だからね。

祖国は台湾
母国は日本。
日本で80年住んでるんだから。

…私に向かって笑顔を浮かべた呉先生の胸元に、日本陸軍 航空兵の徽章が輝いていたのが印象的でした。
↓呉先生のインタビュー動画