石井豊喜 先生のお話

※①の続き

Q.旧軍の階級は生きていましたか?

A.戦争終わって1年半位かな…。
収容所では、旧軍の階級の組織で働かされましたよ。そうじゃないと、作業効率が上がらない。

2年目からは、階級組織を止めました。ソ連側の政策ですよね。
全部の階級を無くして、共産教育した連中を組織の中に入れてそれを中心にした。

Q.「ついに帰って来られる」。
舞鶴で祖国の第一歩を踏み入れた時のお気持ちは?

A.生き返れた…という感激ですね。だいたい想像つくんじゃないですか?(笑)
自分がもう、死ぬかも知れない状態に置かれた人間がいて…。
本土の焼け野原を見てどう思ったか、ですか?
それは情けなかったけど仕方ないですよね…。
 
また、戦争体験の風化は、止むをえないですよ。
しかし、私達の気持ちを伝えて欲しいわけですよ。それが生き残った人間みんなの願いです。

Q.他にシベリアで苦しかった事はなんですか?

A.一つは飢餓状態…。
生きる為の食料が無かったという事です。徹底した飢餓状態が、抑留の特徴です。

もう一つは、日本人の弱さであって、赤化運動。
共産主義化の思想は、洗脳して日本に革命を起こそうとしたわけですから。
コミンテルンは、世界の赤化を考えてるんで、我々を赤化させてから日本に返そうとした。

「ハラショーラボータ」と言って、良く働いた者。
それから共産主義に共鳴した者。 
仲間を売った者。
そういうのを早く返すと宣伝したんです。
「売った」とは言わないけど「吊るし上げ」と言いますね。
すると日本人はね…。
正直です。止むをえないけど…。
飢餓になってる時に飯をくれると言われたらね…。
相手の言いなりにならざるを得ないですよ。

軍隊の秩序は…1年半位は階級章をつけてました。
(ソ連は)目的達成の為に日本軍の階級制度を利用したんです。自分達は経済的に疲弊してますから。

Q.宮城遥拝はいつまでやっていたのですか?

A.(抑留されてから)半年までです。
抑留されたら、環境がもう違うんです。

それと…。
階級だけ押し付けても、人間的な結びつきが無ければ組織は成り立たないです。

※③に続く