岩崎高明 先生

①の続き


(百式偵察機に乗る為に)内地に帰って千葉の八街で訓練を半年受けてから比島に戻ったんです。

全部で三機を(比島に)持って帰って…。
海軍の飛行場がマニラにあって、海軍さんのは滑走路が長かったんです。
(そこに着陸したら)海軍さんが喜んで、海軍さんが百式を使うようになって…。

(持って帰ってきた百式偵察機を海軍に)取られちゃったんですよ(笑)。
ま、取られたというと変だけど、そういう事だと思いますよ。

海軍の飛行場では、陸海軍一緒にやって、懇意にしましたよ。
最後には、陸軍も海軍も(いがみ合いは)無かったなあ…。
私が最後に連合艦隊の姿を見たのは、スリガオ海峡です。 
艦隊が海峡を通過する時に、我々が上空を飛んで警護していたんです。
ミンダナオ島にいたのが、あそこを通ってスリガオを抜けて太洋に出て決戦をやったでしょ。
「見送れ」というので見送ったのです。
ええ、大艦隊は壮観でしたよ。

連合艦隊の進路に敵が来ないように、早く言えば「見てろ」と。そういう事です。
前方に敵の潜水艦がいないかとか、そういう事を知らせるんです。

つゆ払いと言ったら変ですが…。
向こうは日本が出て来るのを見てるわけですからね。
本土決戦? ええ、やるつもりでしたね。
「何で止めちゃうんだ」と思いましたよ。
一旦死ぬ覚悟を決めたら、1トン爆弾で死ぬのも10トン爆弾で死ぬのも、同じですよ。

私は戦死してないのに、戦死公報が家に届いたのです。
ですから、母は私が戦死したと思っていたようで…。

私が戦場から帰ってきて、この家に黙って帰宅して台所に立ったら…。
母と目が合いました。
次の瞬間、母が台所から一目散に私に駆け寄ってくれましたね…。
そこの台所です。

…先生のお家は、築200年か300年の藁葺き屋根の立派な家屋です。
先祖と共に、伝統と共に生きて来られたのが、心底羨ましかったです。
 
そして奥座敷には、広田弘毅 外務大臣直筆の文字が額に掲げられていました。

最近まで地元の警察署の剣道の指南役をされておられたとの事で、取材時95歳の時点で、背筋がピンと伸びていたのが印象的でした。

平成30年(2018年)1月29日 逝去
享年96歳
心よりご冥福をお祈り申し上げます。