上ノ山金夫 先生

※①の続き

それで行き残った者達は全部、アメリカの戦車にぶつかって行ったの。
そのまま戦車でぶつかって行った。全員戦死です。私は砲手と操縦をやりまして…。
M4という戦車は30トン。
前は(防弾鉄鋼が)75ミリある。横は50ミリ。日本の大砲を撃っても入らないの。撃ってもダメ。

2月8日に、連隊長の指示で戦車を放棄して戦車の機関銃を持って、70キロ後方に行ったわけ。

昼間は爆撃で動けない。(動くのは)夜ですよ、ジャングルですよ。バレテ峠の途中まで行って。

患者は車で下がって。ここから元気な者は歩いて下がったんです。
2月15、16日頃にサンタマリアに集合したんです,
それで3月4日頃にサラクサク峠に行きました。

Q. 話はさかのぼりますが、米軍が上陸してくるというのはわかりましたか?

A. そりゃあ、山下将軍の参謀が(司令部から)見てるわな。 

Q. 大挙して来寇してくる米軍をご覧になって、その時の様子・士気はどうでしたか?

A. 士気は「いよいよ戦争するかな」「戦車の撃ち合いするかな」と…。

Q. 怖くなかったですか?

A. 怖いとか死ぬとか、そんな事、考えた事なかったね。ただもう、アメちゃんとやるしかない。
やって、運の悪い者は当たるわけだ。
運のいい者は当たらないわけで、助かるわけ。
運のいい者は助かる。アハハ…。
平地の戦闘は2月8日までよ。

アメちゃんが昼間、自動小銃を持って来る。
メチャクチャに撃ってくるけど、逆にこちら(日本軍の射撃)は、正確ですよ。
元気な者は(戦線の後ろに)下がって、歩けない者はそこに残る、と。
残ったら死だわ。戦死。
食べる物が無い。味噌醤油も無いもの。
野菜の春菊とか生えてるから、それを飯盒で水炊きして食べる。
薩摩芋は山の中に無いの。最初に撤退した人達が食べるでしょ。
わしゃ、食べたこと無かったね。

Q.日本は勝つと思いましたか?

A.フィリピンは負けてるけど、ヨソは勝ってると思ってた。
だから「ここで負けてならん」と。
「たまたま追い詰められてる」と。
情報なんか、何も入らないもん。
負けたなんて(情報は)、入らない。勝ってる勝ってる言うて。

Q.最後は勝つと信じてましたか?  

A.そうだね。
負けとるなんて、知らんもの。ヨソは勝ってる。だから勝たないかん。
食う物ないんやから…。
もう、地下足袋でボロボロ。ワハハハ。

最後は雨季だから、スコール。木の根っこで…。
ワハハハ。狭い道を歩くの。

道が狭い所に(兵隊が)たくさん死んでるけど、(死体を)どける人いないの。
そんな力は無いの。
死んだ人をどけてまで行く力なかったの。(死体を)またいで行くの。
私は取らなかったけど、中には死体から帽子を取ったり、地下足袋取ったりしたらしいですよ。
7月頃、山に行った時、生きてるのが集まって「ゲリラをやれ」と。
山に敵のゲリラをやるの。それを突撃してやる。全部逃げる。そんな事やりましたよ。
みんな病人やもん、あんた。
栄養失調だから歩くのも大変なのに、それを鉄砲持ってやれ言うんだからさ。

8月15日の夜が明けたら、観測機を、みんな「アブ」って呼んどったの。
ブーンブーンいうて飛んで来る。
小銃で撃って落とすと(後で仕返しが)大変なの。
そのアブが飛んで来て、ビラ撒いたの。
「日本が負けた」という…。
(その頃には)負けたと信じられるというのはあったね。信憑性があったのね。
フィリピンがこんなだから、ヨソもそうだろう、と。
でも(投降)しないでそこに1ヶ月おったの。

日本の若い将校は「(戦争を)続けてやる」と言うとったらしいね。
もし止めても(政府がポツダム宣言を受諾しても)、やるなら、やらないかんから。
それで1ヶ月経って、9月15日に初めて(戦いを)止めた、と。
鉄砲から剣から、放ったの。
それでアメちゃんから携帯口糧(食糧)をもらって…。うれしかったね。

Q.その時に、米軍への恨みはありましたか?

A.そんなもん、無かったね。

Q.米兵が日本軍人に対して、見下した対応とかは?

A.無いね、対等ですよ。

上に何も無い車に乗せられて山から降りたら、住民から石を投げられて…。
ガランバといった所に行って、まずシャワーあるの。
みんな裸になって石鹸とタオルくれるの。それで体を洗うの。
シャワーみんな出て行くと、フランパンと食器があるの。くれるの。
それでパンツとズボンと上着をもらって行くと、天幕があるの。

そこで食事をもらうんですが、折り畳みの弁当と毛布ですな。そこへ腰かけて飯はおかゆだわ。
オートミールとか、それをもらうの。幕舎でみんな食べるの。
みんな自分のよりも、隣を見るの。 
「ちょっとお前の、多いんじゃないの」と。

ベッドの上は、私ら骨だから、痛かったね。毛布一枚だし。

捕虜になった日本人が分配してくれるの。「ご苦労様です」「ご苦労様です」
って。
そこに、2月8日に捕虜になった平間というのもおって…。
幕者の中で人が死ぬから、トラックにつんで焼きに行く。
それを平間がやっとった。「平間やないか」言うたら、こんな太ってた(笑)
平間は子供がアメちゃんと仲良くなって、戦後は子供がアメリカに留学してました(笑)

こちらを見下していたのは、直接戦闘をしないで後から来た兵隊達。
最前線で我々と戦っていたアメちゃんは、戦争が終わったらみんな我々と抱き合いましたよ(笑)

…そんな上ノ山先生ですが、2018年9月25日。
7歳年下の最愛の奥様が亡くなられた3ヶ月後に、後を追うかの様にお亡くなりになりました。
享年97歳。
合掌