改めて「鬼哭啾々」の意味を検索しました。


「悲惨な死に方をした者の浮かばれない亡霊の泣き声が、恨めしげに響くさま。
 転じてものすごい気配が漂い迫りくるさま。
 『鬼哭』は、浮かばれない霊魂が声を上げて泣き悲しむ事。
『啾啾』は、しくしくと泣く声の形容」
 
比島、ニューギニアの戦いほど、この言葉が当てはまる戦場はありません。
台湾沖航空戦の誤報から始まる比島決戦の敗戦責任の問題については改めて検証しますが、まずはこの地獄の戦場を体験された方達からお聞きしたお話をご紹介いたします。

大本営 海軍部によるウソ発表の「大戦果」台湾沖航空戦の大誤報により、比島決戦の戦略は根底から狂いました。
海軍上層部は、ウソ発表の「大戦果」に気付いた後も、それを訂正しませんでした。
天皇陛下の詔勅まで賜っておきながら、今更「全くの間違えでした」と、言い出す勇気がなかったのです。
だからウソ戦果をウソ戦果と知りつつ、訂正しませんでした。
国家の大義の己ではなく、単に己の面子の為です。

しかし、東京の中央にある海軍上層部の官僚達のこのほんのわずかな自己保身的な考え方が、遠くに行けば行くほど負の遠心力が働いて、味方をなぎ倒します。 
死者50万人の比島決戦のその膨大な死者数の責任の大半は、海軍上層部にあると私は確信しています。

海軍エリート官僚が、陸軍を中心とする友軍50万人もの死者を生んだのです。
この事に触れる人は、何故かほとんどいませんが、これについては改めて論考いたします。
 
上ノ山金夫 先生
大正10年(1921年)8月12日生まれ

昭和17年(1942年)1月10日、戦車第十連隊要員として第六連隊補充隊 教育隊に入営。
昭和17年3月30日に宇品港を出港し、翌4月1日に釜山に上陸。
4月5日に、満州東部に位置する東安に到着し。
戦車第十連隊 第三中隊に編入されます。

昭和18年2月8日、戦車第二師団 司令部勤務要員として東安を出発。
同年8月4日、第十四方面軍 戦闘序列に編入。
同年9月2日、輸送船にて釜山を出港。

同年9月30日、フィリピン・ルソン島のサンフェルナンドに到着。
九七式戦車に搭乗し、米軍上陸に備えます。

翌昭和20年1月9日、米軍は遂にリンガエン湾に上陸し、上ノ山先生を含む日本軍はこれを迎え撃つ為に出撃。
 
激戦の末、1月27日に旅団長以下、第七連隊がほぼ全滅。

一時撤退した上ノ山先生の部隊に、2月4日頃に米軍が来寇。
2月5日には戦車が5台やられて、2月6日に第六連隊が全滅、山に退避。
2月8日には、第六、七、十連隊の戦車が全て無い状態で、タコ壷を掘って戦車の機関銃だけで米軍と戦闘。
その後、戦車の機関銃だけ持って、70キロ後方に避難。

3月3〜4日頃にサラクサク峠で決戦。
3月10日頃には、ほぼ全員が戦死します。

そこから後は撤退戦で、山中で春菊等を食べて過ごされます。 

上ノ山 先生のお話
2017年 96歳時のインタビュー

アメちゃんの(戦車の)鉄板は厚いの。日本のは薄いの。
(こっちが撃っても)みんなハネ返っちゃうの。M4戦車は。

(日本の戦車の)中に(人が)いるでしょう。
弾が当たったら、(戦車の)中で(弾が)回転するんです。
1月30日に山下閣下の命令で後方に下がって、十連隊の連隊長がサンシドロに(後退)。
三中隊、七連隊一中隊がルパオに来た。
「ここで守れ」と。

1月30日から我々は、戦車壕を掘って(米軍を)待っとったんですよ。
そしたら2月4日に、アメちゃん来たわけですよ。

上から爆撃されて、向こうから戦車来るでしょ。
2月5日、ルパオで第一中隊長やられて、戦車5台やられて…。
それで2月7日に、ルパオから山へ退避した。
(※上ノ山先生は、ルパオでM4にやられました)

歩兵がようけいる所に、榴弾を撃たれます。
弾がハネるでしょ。それでやられる。
そこで千島中尉が「水くれ」と言って、あげたら死んでしもた。

※②に続く