田中三也 先生


※①の続き




フィリピンでは、部隊の仲間と共にバンバン基地を脱出し、二週間飲まず喰わずでやっと辿り着いたツゲガラオ基地で急遽、特攻隊の編成を命じられます。
田中先生の部隊から特攻隊員を出せ、という命令です。

田中先生は、沈思黙考の後に「よーし、俺が行こう」と名乗り出ます。
「これも一つの死に方。いずれ遅かれ早かれ逝く身」
と、血を吐く様な想いで決意をされました。
   
特攻機のコクピットに座り、離陸寸前に「この世から消えるのも数時間後」といよいよ覚悟を固めた時に「熱いものが頬を伝わった」との事。

ご両親の事。彼女の事。
そして再会の約束をしていた上官の事を想ったそうです。
 
ところが、離陸寸前に機体のエンジン不調で出撃できず、特攻出撃は翌日に延期されます。
「死ぬ覚悟は出来ていて、飛行機と一緒なら怖くない」

しかし…。
その後に結局、夜中にその機体が爆撃されて特攻自体が中止。
そのまま内地に帰還して今度は源田実 司令の下、特攻ではなく偵察任務を命じられます。
 
凄いのがここからです。
正直、ツゲガラオ基地で最初に特攻の話が出た時は、先生もさすがに内心は乗り気がしなかったそうなのですが…。  

「一晩あけたら、逆にもう特攻が自分から抜けないんです。 
『俺は特攻隊だ。早く特攻に行かせろ。特攻以外はやる気ない。早く出撃させろ』
こうなっちゃったんですよ。特攻に行かせてくれないから、ふて腐れちゃったんです」  
 
凄いです…。

その後、源田司令から、「お前の特攻は私が預かる」と言われて初めて、特攻が抜けたそうです。

戦後は昭和30年(1955年)1月に海上自衛隊に入隊。

3月には、かつて知ったる鹿屋航空隊に配属となり、航空士として対潜哨戒機PV2・P2Vに乗組。
 
昭和48年(1973年)11月に二等海佐として退官されるまで18年間、後進の指導・国防の任に就かれます。
 
その後、昭和50年(1975年)2月に、日本航空機輸送(株)に入社。

今度は平和の空を羽ばたいて、フィリピン・日本国内を航空測量。
 
そして半年後。
そろそろ飛行機から降りる潮時かと考えていた頃に、アフリカ・タンザニア沿岸部の道路建設の為の空撮を打診されます。

先生は「戦中・戦後の経験と研鑽の集大成として」迷う事なく引き受け、これに挑みます。
 
昭和50年(1975年)8月28日に名古屋空港を出発し、那覇・カラチ・ドバイ・ナイロビ等11カ国16の飛行場を経由してタンザニアに到着。
 
初めてのアフリカ大陸に興奮しながら、厳しい条件の中で測長500キロの撮影を無事に成功します。

「撮影終了の瞬間は、機内は万歳、万歳だった」
 
海軍での飛行時間 1950時間
自衛隊での飛行時間 2700時間
民間での飛行時間 850時間
 
総飛行時間 約5500時間

戦中・戦後と駆け抜けた35年の長きに亘る田中先生の空の歩みは、最後はアフリカ空撮でグランドフィナーレを迎えました。
 
「今ですか? 今がいいです。いい世の中です。今は一番最高です。」

長年の思い出話と共に、そう語られた先生の笑顔を拝見して、私は確信しました。

「田中先生は次に生まれ変わってもまた、大空を駆け抜けるんだろうな。今度は平和の空で…」

と…。

2021年11月、お亡くなりになりました。
享年98歳
安らかにお眠り下さい....