中島又雄 先生

大正14年(1925年)、熊本の中心部で大きな理髪店を営んでいたお家の一人息子としてお生まれになりました。
小学生の頃から学業優秀で、中学4年の時に海軍兵学校と陸軍士官学校を受験。

合格発表の早かった海軍兵学校に、開戦一週間前の昭和16年(1941年)12月1日に第73期生として入校。
昭和19年3月22日に、八ヶ月繰り上げての卒業。
昭和19年4月、霞ヶ浦練習航空隊に入校し、九三式中間練習機・通称「赤とんぼ」で約五ヶ月間の訓練。

8月30日に練習機過程を修了し、希望と適性で戦闘機乗り組みに決まり、9月1日には少尉任官。

引き続き霞ヶ浦航空隊で、零戦での巴戦を主とする対戦闘機戦の訓練に励みました。

翌昭和20年3月1日に海軍中尉に任官。
兵庫県西宮南部に展開する第332海軍航空隊に補され、合計10人が着任。

その後、岩国基地に一時移動となりました。

これまで、対戦闘機戦の訓練しか受けていなかった中島先生達は、ここで初めて対大型爆撃機用の訓練を受けました。

ここでは、対大型爆撃機用に最高に難易度が高い「垂直落下直上方」の攻撃法を主に訓練します。

敵の前方かつ上空から接敵して、敵の真上で背面飛行に入り、敵機の頭上から垂直逆落としでコクピットを目指して攻撃するという、奇跡的なアクロバチックの戦法です。

敵は真上には機関銃を撃てないので、この攻撃角度だと敵の死角となり、一番有効らしいのです。

ところが…。

昭和20年5月21日に岩国から第332海軍航空隊に帰るや、これだけ学んだ迎撃方法を禁止されました。

戦闘機 紫電改を生産する川西の工場を爆撃しに来たB29に対しては、「垂直落下直上方」は必ずしも有効ではない、との事なのです。

即ち…。
零戦が上から落ちて来たらどうする事も出来ない敵B29は、逆に航路を変えずにそのまま爆弾を落とす。
しかしそれでは工場を守れない。

撃墜よりも、工場を守る事を優先する。
従って…。

工場を爆撃しに来るB29に対し、そのコクピットを目指して、こちらは何と真正面から突っ込み銃撃するという戦法に切り替わったのです。

※②に続く