旧軍パイロットの方とお話させていただいていつも思うのですが、どの方も気宇壮大と言いますか、どこまでも抜ける様な南国の青空の様な雄渾さ・明るさを感じます。
海軍航空隊の方達は西日本、特に、何故か愛媛に多くご健在です。そこで私はお話を聞きに、2014年5月に初めて愛媛に行きました。
そこで私は(いい意味で)カルチャーショックを受けました。
2014年の時点で、JR松山駅にはSuicaはおろか、自動改札機すらありません。
つまり「手」。
駅員さんが手で切符を切っていました。ホームに入ったら、木製のゴミ箱…。
私はレトロ感を出す為に、わざとやっているのかな…」と、深読みしてしまいました。
また、戦前からある様な古い家屋も多く人情も温かくて、「ここは未だに昭和だ。テイストが東京と30~40年違う」と思いました。
戦争経験者のお年寄りがいて、お座敷で若者達と車座になって当時の話を語り合う…。
これは、私が少年時代(バブル前の昭和50年代)に経験してきた事です。
「東京では失われたものが、ここにはまだある。そういったかけがえのない伝統を、大事にしてもらいたい」
当時も今も、私は切に願っています。
という事で、愛媛でお伺いしたお話を、ご紹介させていたたきます。
2018年のインタビューです。
北沖道行 先生
大正10年(1921年)のお生まれ(愛媛県内子町)の北沖道行先生は、九六式艦上戦闘機のパイロットとして支那事変を戦われた方です。
ゼロ戦ではく、九六艦戦です。ゼロ戦よりひとつ前の機種です。
2018年の時点で、何とご自分でお車をご運転されていました。
お邪魔させていただいたご邸宅は松山の中心部から車で約一時間ほどの山間部にある、東京ではまず考えられないような古い立派な建物で、私は何か戦前にタイムスリップした様な気がしました。
昭和13年(1938年)に佐世保海兵団し、翌年に軽巡洋艦「川内」に乗艦。
昭和15年(1940年)に霞ヶ浦海軍航空隊(操縦練習生53期)へ。
その後、筑波飛行場で単独飛行を経て、実地の飛行訓練を積みます。
「線路の上を飛ぶんですよ。真っすぐ飛べてるかどうか、わかりますからね」(北沖 先生 談)
そして翌昭和16年(1941年)に、四ヶ月いた大村航空隊から元山航空隊へ配属。
※この時の飛行隊長は、黒澤丈夫大尉。
後に昭和60年(1985年)8月の日航ジャンボ儀墜落事故において、上野村村長として現場での陣頭指揮を執った方です。
その後、九六式艦上戦闘機で漢口から宜昌へ進出し、南京爆撃の中攻(九六式陸上攻撃機)の護衛任務に就きます。
しかし燃料の都合上、先生の機は中攻隊の護衛は途中までしか出来ません。
ですので、主たる目的は、「攻撃隊に戦闘機の護衛がついてる」という事を敵方に知らせる事なのです。
しかし同年、漢口でゼロ戦の訓練中に負傷して、昭和17年(1942年)に帰国。
佐世保海軍病院に入院し、昭和17年(1942年)に海軍を除隊されます。
ゼロ戦は、九六戦とは比べものにならないほど良かったけども、私は九六戦の方が好きじゃったですな。
Q失礼ですが、空を飛んで戦う事に、恐怖感というのは…。
怖かったら出来んよ。
「死んじゃったらどうする」と聞かれるけど、だからこそ死なない様に訓練するのよ。
でも、そもそも、生きる事に未練がないのよ、搭乗員というのは。
朝、元気なもんが、夜にはおらんですからね。
特攻隊なんかも、あっさりしてたんじゃないじゃろか。
(命に関して)あっさりしてるのよ。
おん歳97歳で、なお矍鑠としたそのお姿が忘れられません。
2023年1月22日 102歳で逝去