要するに、「日本人」である事をフッ飛ばして「地球市民だ」等というのは、「人間は地球に住んでいる」とか「人間は生き物だ」とか言っているのと同じで、何の意味も無い事です。

「人間提督」等というのも、と同じです。
人間が地球に住んでいる事も、人間が生き物なのも、提督が人間なのも、そんな当たり前の事はわざわざ言う必要が無いし、言っても意味が無いのです。

そもそも、高潔な倫理感や誇りというのは、抽象的な「人間」とか「地球人」とか「生き物」とかからではなく、より先鋭的に「国民」としての強烈な自覚から生まれるものだと思います。

「国民」という自覚は、文明性を有している

それに対して、固有の歴史や伝統を捨象した抽象的な「人間」とか「地球人」とか「人類」とか「生き物」というくくりは、文明性の退歩を意味しないでしょうか。

しかし、無国籍的な教育が支配してきた戦後日本のアカデミックな世界では、こういった「人間提督」とか「地球市民」のような無国籍なテイストが、確かにウケるのです。 
  
ですが「みんな同じ人間なんだ」というマインドでいると、「日本を敵視している国」への警戒心が下がります。

それが、外国のスパイや工作員達の、日本国内でにおける跋扈を許す温床になります。

「みんなと仲良く」というのは小学生の話で、大人になったら付き合う人間を選ばないといけないのと一緒。

ですから、とにかく「部下思いの人間提督・山本五十六」なんて、戯言でしかありません。