山本五十六は「大日本帝国の人間」ではない?

そもそも「大日本帝国」とは、戊辰戦争後に薩長土肥を中心とする西国雄藩によって建設された国家です。

父も祖父も薩長に斬られている山本五十六

山本五十六は旧姓 高野五十六。
実父の高野貞吉氏は戊辰戦争において「賊軍 長岡藩」の藩士として長岡で薩長と戦い、更に会津城に転戦してそこで負傷しました。

※貞吉の実の父(五十六の実の祖父)は、長岡城で戦死しています。
貞吉自身は、維新後はうら寂しく日陰者として余生を送ったそうです。
また、送らざるを得なかった。
この時代、旧幕府方である「旧賊軍」や「旧敵藩」出身者に対する社会的差別は、想像を絶するものであったと思います。
今のアメリカで言えば、ベトナム系米国人かイラク系米国人と言った所でしょうか。

高野貞吉と高野五十六は、父子共に薩長主導の「大日本帝国」に恨みを持っていた事は、想像に難くない。

「二人の父親」が共に
薩長に殺傷されている五十六…

実父の死後に高野五十六は「山本家」の養子になりました。
この「山本家」は代々、長岡藩の家老ですが、当主不在で家名しかなかったのです。
そしてこの「山本家」の当代たる山本帯刀も、戊辰戦争の会津城攻防戦で斬首されているのです。

大正4年の、「長岡藩 落城の日」に…

五十六は、家名しかないこの家督を32歳の時の大正4年(1915年)5月19日に相続しましたが、実はこの日は、「長岡城 落城の日」でありました。
その日を選んだわけです。

骨の髄まで「薩長に対する旧幕府」を
引きずっている五十六

また、五十六が妻に選んだ女性は、会津藩士の三女です。
そして、こういう道を歩んできた五十六の思考回路は「長州藩が作った明治政府」や「長州藩が作った日本陸軍」に対して、どう発動していたか。
容易に想像がつくというものです…。

幼少期にキリスト教に傾倒した山本五十六

また五十六は、幼少期に近所にいた米国人宣教師の影響を受けて、学生時代には聖書を読みふけっていたそうです。
武士の子としては異例でしょう。

また、今もある長岡市の『山本五十六記念館』には学生時代の五十六のノートが展示されており、五十六はそのノートの表紙にデカデカと、アメリカのフランクリン大統領の名前を大書しています。

五十六は、幕府側の出身という出自による社会的差別に苦しむ中で、この頃すでに「移民の国 アメリカ」を、「出自を問わない理想の国」としてイメージを膨らませていたのかも知れません。
「幼少期に近所にいた米国人宣教師」の話を思い出しながら。