竜馬は、家庭をほっぽり投げて国事に奔走…

これは、地球市民に通じる共産思想では…


家紋や先祖を背負って、それが殿様への忠義につながっているのが江戸時代の武士。

会津藩士や長州藩の高杉晋作も、御家や家紋や先祖を背負って、その果てに藩への忠誠がある。

片や、あの小説の中の竜馬にはそれがない。


龍馬は、武士の魂である刀を捨てて西洋の銃に走り

次は万国公法へ…


龍馬は、日本精神が具象化した武士の魂である刀を捨てて西洋の拳銃に走り、後に万国公法本に走って、それが美談として語り継がれている人物です。


「刀 →   西洋の拳銃 →    西洋の万国公法本」

という順番ですね。

こういった「脱日本」的で「地球市民」的なテイストは、確かに戦後の日本では「進歩的」としてウケるのです。


万国公法とは、今のグローバルスタンダードの事


しかし、当時の万国公法とは今のグローバルスタンダードの事であり、ある意味「だまし本」です。


つまり西洋人が説くグローバルスタンダードというのは弱肉強食が基本であり、スポーツもそうですが自分達に都合のいい様にルールを改変してしまう性質のものです。

とにかく、果てしない弱肉強食と優勝劣敗。容赦ない弱者切り捨て。

これが西洋流グローバルスタンダードの本質です。

「弱肉強食」という自然界の摂理剥き出しのこの価値観の、一体何がいいのでしょうか。


それに対し、その動物的な「弱肉強食」を超えて「どこまで弱者に寄り添えるか」に強さを見出すのが日本的な価値観だと思います。

そして私は、こちらの方がより高尚な気がしますが、いかがでしょうか。


あくまで私見ですが、司馬氏が描く坂本龍馬像には、その根底に「無国籍で地球市民的なコスモポリタニズム」が揺曳している気がします。