「謙虚さ」とは「己の中に悪がある」と認識し、だからこそ、それを出さぬ様に押さえる事

私がその世界にいたからわかりますが、建築職人というのは正直、暴走族あがりやヤンキー兄ちゃん、入れ墨を入れたヤクザ崩れが圧倒的に多い。
ただ、彼らはお客様に対し極めて謙虚です。
並の営業マンなんて、及びもつかない位に謙虚。

それは、彼らは「悪」の時期を経て「己の悪」を知っているから、だと私は思います。

「悪」がどれだけ人を悲しませて傷つけるか。
そしてその「悪」が自分の中にもある。

という事がわかっている。
だから、謙虚なのだと思います。
それを出さない様にしているわけです。
まさに親鸞の悪人正機説。 

「己の悪」や罪を認識すると激しい良心の呵責が起こり、それを癒そうとする「愛」に出会うのかも知れない。 

そもそも「悪」や罪は、宇宙の共生の法則に反するものです。 
他を活かすより、我欲を優先させる生き方が「悪」や罪の本質。

そして、時に愛は、人間が己の中の「悪」を体験して初めて心の中に出来上がるもの。
反抗期の自分中心の「悪」の時期を経る事で、大人になるのと一緒です。

桜のつぼみは冬の寒さがあるから膨らむのと似て、「悪」を乗り越える為に手に入れた理性や努力は、そのぶん力強いと思います。