三島由紀夫先生が、

渾身の力を振り絞った説いた「真のエロス」


死の裏付けがなければ、真のエロスに到達出来ない


私が、人生観の原点にして帰結である青春期に読んだ『憂国』は、私の核になりました。

 

内容は…。
陸軍中尉夫妻の物語。

その晩に、武山中尉は軍の大義の為に切腹し、若妻はノドを刀で突いて自決する事を、二人で決める。

しかし…。

数時間後の自死を前提にした、「人生最後の夫婦の営み」の、何と甘美な事…

お互い、目の前の相手が、人生最後の人…。
愛は一度限り。
美は一度限り。

美学というのは、死とかけ離れては考えられない。

死のみが裏付ける事が出来る、
二人の究極性の一体性…

愛の極限、それは「一緒に死ぬ事」でしかない

自決を控えているからこそ、そこでは愛の極限に惑溺し、死に至るまで性の悦びを追求し、その至福の極みにおいて、超絶的な境地に至る。

やがて訪れる死を背景に、その性的陶酔は絶頂の高みに登る。 

死とエロスの類縁関係

…そういう物語なのですが、それは、その辺の安い性交なんかとは次元が違う。

「美」と「死」と「真のエロス」が一本の線を成してる姿こそ、『憂国』が理想とするエロス。 

三島先生に言わせたら、死を見届け人にしない愛なんて、牛乳を水で薄めた様なもの

「超絶的なもの」に触れなければ真のエロスは無い

日本には、「ハレ(非日常)とケ(日常)」という文化があります。 
そして真のエロスは、神とか死といった超絶的なもの(ハレ)に触れる事によって更なる進化・深化を遂げる。   
それが三島先生の小説『憂国』のテーマであり「真のエロス」。  

だから今の、何も抵抗物も無い単なるフリーセックスなんてのは、超絶的なものに触れず、タブーにも触れない。単なる獣的な発情行為です。