今吉 孝夫 さん

 私は旧軍人・戦争経験者インタビューを本格的に始める数年前までは、


「もはや日本中、九州も大阪も、どこも品川と一緒だろう」


と思っていました。


 しかし、それがとんでもない勘違いである事がわかりました。

 一言で言って、地方には、日本的情念とか伝統とか大和魂といったものが、まだ根強く生きています。

 

 特に九州。

 今でも熱い血潮を持った人間が多いです。

 実際、終戦時も「九州独立論」と言って、九州の人間だけで戦争を継続しようとする動きがあったとすら、聞きました。


 中でも、福岡や熊本、鹿児島といった地域。

 これらの地域の人達は、もはや東京人とは別人種とすら思います。

 剽悍決死の士が多い。

 男も男なら、女も女です。


 私は民俗学や遺伝学の専門家ではなく、あくまでも鹿児島の人からの聞きかじりの知識なのですが、鹿児島人はそのルーツが日本の他の県とは違う。という説を聞いた事があります。

 

 その鹿児島は、本土決戦において敵が真っ先に上陸して来る予定だった場所。


 当然こちらでもそれはわかっていて、鹿児島下の人達はその覚悟で待ち構えていました。

 

 終戦直前の昭和20年8月11日。


 鹿児島県加治木市は、米軍機35機の焼夷弾投下と機銃掃射を受け、死者26名を出します。

 

 敵機は地上スレスレ。

 それこそ、何と高度数十メートルの超低空飛行での空爆。


 時速500キロ以上ですから、操縦桿の操作をちょっとでも間違えたら、一瞬で地面に激突する高度です。

 

 そして敵機はその至近距離から、地上を歩いている人間には女子供にも容赦なく、機上から無差別で機銃掃射をします。

 敵もさる者。

 その高さだと、低すぎて地上からの対空砲火が、逆に当たらないのです。


 ここでご紹介する今吉 考夫 さんは、1932年(昭和7年)お生まれで、終戦時は鹿児島県 加治木中学一年生の13歳。

 本土決戦に備える中、加治木空襲を経験されます。


Q.敵機の高度は地上数十メートルですから、向こうは当然、女子供とわかって狙いを定めて機銃掃射して来るわけですよね?


A.そりゃあ、わかっていますよ。

米国の公文書を調べましたが、眼下にいる人間は全て戦闘員だとハッキリ書いていますから。

女子供も、戦闘員と見なしているんです。

だけど、怖くはないですよ。

敵が来たら、家族含めて全員死ぬ覚悟ですから。


Q.本土決戦が始まったら、戦うつもりでしたか?


A.もちろん全員、戦って死ぬ気でした。 

そういう教育ですから。


Q.「もう死ぬ」と決めたら、開き直っちゃうものなんですかね…。

当時の13歳とか14歳って、かなり大人なんですよね。


A.はい。

当時、私達の地域では、小学校を卒業したら周りは大人と見ていました。

もちろん本人達も、その自覚です。


Q.13歳にして、この決意…。

ところで今と戦前の日本。どちらがいいですか?


A.それは今の方がいいです。平和で有難いです。ただ、国として守らなきゃいけない一線を越えられたら、私は今でも戦う覚悟です。


…さすが、薩摩隼人の気風を残す鹿児島県民。やはり九州。特に鹿児島は別物です。


2017年12月 聞き取り