中島又雄 先生
1924年(大正15年)熊本生まれ。海軍中尉。戦後は海上自衛隊に入隊し、海将。
8ヶ月繰り上げて卒業し、1945年(昭和20年)3月に海軍中尉に任官。
第332航空隊のゼロ戦パイロットとして、1945年(昭和20年)6月に初陣を向かえられました。
敵のコクピット目指してそのまま一直線
中島先生のお話
私は、B29迎撃専門だったんです。B29はゼロ戦よりも重武装なんですが…。
B29の機銃というのは、下にも後ろにも付いていて、それに対しゼロ戦の機銃は全て前方を向いてる。
従って…。
B29とゼロ戦、真っ正面からの一騎討ちに限定すると、ゼロ戦の方が火力で勝っているんです。下や後ろの機銃は、正面には向きませんからね。
どうせ死ぬなら一撃、と思って、敵のコクピットを目指して20ミリを撃ちながら一直線に突っ込みました。
向こうもこちらも時速500キロ以上、つまり相対速度は1000キロ以上です。
そりゃあ、真横からも弾は飛んできますよ。だけど強がりでも何でもなく怖くなかったです。
ただ…。
B29は9機編隊で来るので、一撃終わると私は直ちに退避して次の2機目の攻撃に移るんですが…。
その時に、B29の後ろについている機銃が私を狙うんです。私はその時は逃げる一方なので、あれは怖かったです。
終戦翌日。このまま引き下がれるか、という事で我々の部隊で特攻隊が編成されて、私も志願しました。
そして我々士官を中心に特攻隊員の名簿を作りました。
部下達を行かせるわけにいきませんからね。 そうしたら、特攻隊に選ばれなかったその部下達が私の所に来てね…。
泣きながら言うんです。『何で我々も特攻に行かせてくれないんですか』ってね…。
戦争は終わったんですよ。特攻は死ぬんですよ。
でも、うれしかったですねえ…。
『お前達は俺達の次に、必ず機会がまたあるから』って、なだめたんです。
そのうち、米軍が来るという事で、飛行機のプロペラを外したんですが、その時は涙が出ました。
胸をえぐられるお話でした。
2016年11月にご邸宅にお邪魔したのですが、私が玄関を離れてかなり経ってから振り向くと、中島先生は何と、まだ立ってお見送りしていて下さって、最後に手を大きく振って下さっていたのですが、そのお姿が今でも私の瞼に焼きついています。