今年は年始から夫の身内に不幸があり、夫のメンタルが心配な日々でした。
悲しみに浸る間もないほど毎日忙しくいろいろな手続きをしている夫のそばで、
夫を心配しつつ、私にとっても、葬儀他の法要に寄り添い、親戚の初めて会う方にも挨拶し、そのほかいろいろな事で夫に同行し、特別な年明けの日々を過ごしました。

そんな緊張の日々の中、夫婦でごくカジュアルな食事をし、お酒も入った夫は帰り道の車の中(運転は私です)、何の話だったか、先妻のことを
「うちの嫁さんだから」
と言ったのです。

先妻の呼び方については、交際2年目あたりで、「嫁さんが」「家内が」というのは「不倫みたいなのでやめてほしい」とお願いしてあります。
それからは先妻さんのことは普通に名前を呼んでもらってきました。

それから約5年がたった今、ここへきての「うちの嫁さん」でした。
お酒が入っているからか、全然悪びれていない。


私、現役感のあるこの呼び方が、とてもイヤなのです。

もちろん身内に不幸があったばかりです。

いつもとは違うのだから、と思います。が、

帰宅後、文句を言ってしまいました。


しかし言っても、言っても、私の心は割り切れませんでした。

しらふの時に「まだ○子さんがうちの嫁さんなの?」と聞いてみたら、「何をばかなことを」とムッとしていました。

割り切れない私は、しつこいなと思いつつ、2,3度この話を持ち出してしまいました。
夫もいやな思いをしたと思いますが、私も今回は謝らず、言い訳しませんでした。


「割り切れない」とは良く言ったものです。
ぜったいに「余り」が出てしまう割り算の様に、この件をこれ以上夫に持ちだしても、一部はすっきりしても、それでも必ずなにかわだかまりが残るのです。
誠実な夫でも、何度話しても、お願いしても、きっと根本は何も変わらないだろうなと思いました。
この件は、私だけが悩んでおり、夫には普通のことなのでしょう。

数日、頭を冷やして、この件は宙ぶらりんのまま、この問題は、根本的にどうしようもないかもしれないと悟ったのです。

離婚した私は、夫に対して、元夫のことを「うちの旦那さんが」とは言いません。
夫も、いつもは「うちの…」と言いかけて、ずいぶん迷ったあげく、苦労して他の言葉に言い換えてくれている様子ですが、


どちらにしろ、酔っていて言うということは、無意識に先妻さんは夫にとって「うちの嫁さん」のカテゴリーなのでしょう。


今回、親以外の身近な人の死を初めて目の当たりにして、私は衝撃を受け、人は死ぬのだ、自分もまた死ぬのだ、と理屈ではなく思ったのと同時に、


誤解を恐れずに言えば、人間が亡くなる、という時の実際に立ち会った時のお線香にまじる、何ともいえない匂い、今生きている自分も近未来、確実にそうなるのだ、という思い、人間の「生」と「死」の近さを感じました。

亡くなる、ということの事の大きさに、今更ながらに圧倒されました。

亡くなった方を心をこめて悼み、夫を支え、夫に支えられながら、
弔う、という行為以外で、亡くなった先妻さんのことを考えるのはもうやめよう、と思いました。
あれこれ想像して、嫉妬するのはやめよう。気にするのはやめよう、と思いました。
なぜなら、もう亡くなったのだから。

夫にも何回も言われたことのあるこの言葉
「もう亡くなった人なんだから」
が、やっと自分の実感になったのです。

夫は、誠実な人で、私との再婚後、夫が私だけを愛してくれていることに寸分の疑いもありません。
それに先妻さんのことになると、私をたくさん気にかけて私を優先してくれる優しい夫です。
夫はきっと、先妻さんとの結婚においても誠実な夫だったからこそ、その先妻を亡くし、その後出会った私にも、妻にすると決めたからには誠実な夫であり続けてくれているのです。
その上、先妻を亡くしたという経験が、新しい妻(私のこと)をより大事にしよう、とさせているのだと思います。

死別した男性との再婚の場合、夫には「妻がいない」のではなく、「亡くなった妻がいる」のだなとつくづく思います。
私以外に「妻」がいるなんて、いやです、本当は。
それでも、今一緒に生きている妻というのは、素晴らしい存在ですよね。

「うちの嫁さん」の呼称には、これからも、「イヤ」と言うでしょう。
「うちの嫁さんは私じゃないの?」
と言ってしまうでしょう。笑

でも、その意味をあれこれ思い悩むのはやめました。(たぶん)

夫と生きている今が終わる時まで、私は夫と幸せに幸せに生きていこうと決めました。