彼と電話中、何かの話で、彼が私に、
「ウチの…」
と思わず言いかけて、言葉をにごし、ややあってから、
「…月子も、そんなこと言ってた」
と続けた。

油断していた。久しぶりに、肋骨のあたりに差し込みが来て、涙目になる。

「ウチの月子」
それは、家族以外の第三者に対して妻を言う時の、彼の長年の言い方だったのだろう。

傷ついている私の心は、亡くなって8年経つ今も尚、彼が「うちの月子」と言うということは、私もまた大勢の第三者のひとり、なのではないか?という被害妄想に起因していた。

もやっとしたら、それを後になって言ってはだめ、彼は「そうは言ってない!」とゼッタイ言うので、(笑)傷は余計にひどくなってしまうのだ。

出来るだけ、その時、自分の感情を彼に呟いてみることにしている私は、言葉に気を付けながら、思ったことから呟いてみる。 

「キツイな…。
今も『ウチの月子』なのね」

「そんな。亡くなった人なんだよ?
もう、いない人なんだよ?」

ごもっともなこの言葉。
でもこの言葉では、全然救われないのはなぜなのだろうといつも思う…。

いくら話しても私の気持ちほんとのところは、分かってもらえない。
さあ自分の気持ちをどうしようか。

その時、やはり、月子さんは私を応援してくれている。私の味方だ。と思うことでしか、救われないような気がした。

「月子さんは亡くなった人だから、
あなたの幸せを願ってるよね」
「うんそうだ」
「私は、月子さんは私のことを応援して下さってると思うことにするよ」
「うん。そうだ」

彼は前に、私が知るすべもない、月子さんの闘病中の写真について言及して、
『月子と他人のさくらもちにはとても見せられない写真。
見せたりしたら、月子が可哀そう。
好きで病気になったわけでもないのに!』
と言ったことがある。
もちろん、私は、見たいなどと一言も言っていないのだが、私は『彼が私から月子さんをかばった』ということに、とても傷ついたのだと思う。

月子さんのことは、亡くなった人としてリスペクトしている。

月子さんと私は競合しない。
居る時間は彼女と重ならない。

「あなたがかばう必要がある程に、私は月子さんのことを傷つけていない。
少しも傷つけたことはない。

それなのに月子さんを私からかばわれたりすると、私はとてもいやなのだ。
とうか私に対して、月子さんをかばったりしないでね。」

彼は言ってくれた。
「わかった。かばったりしないよ。俺も「ウチの」は言わないように気を付ける」

そして尚も言った。
「その写真も別に見せたっていいんだよ」

「えっ、本当?」

さすがに、そこまで言ってもらって、初めて私の気持ちは落ち着いた。
写真を見る、見ないではない。
「月子さんと彼」V. S.「私」の図が、「月子さん」V. S. 「彼&私」と感じられ、今は自分が一番大切にされていると思えたからだと思う。

(それは何度も彼に言ってもらっているのだが、咄嗟のこのような彼の一言に打ち砕かれてしまうのだ。)


「対外的な『ウチの』については、結婚後は更新してね」
「わかった(笑)」

こんなことを言うなんて、ハシタナイかもしれませんが、負の感情はその時に出しておかないと、大きく育ってしまうものだから。

もう、どうしたって、
月子さんは
私の味方ですから!!