インタビューは会期末の10月29日に行われた。その前半は既報(ヨコトリーツ!vol.10)。ここでは後半部を、森村ADのほぼ発言通りにまとめた。

 美術展は展示された作品からその意図を推し量るもの、とは言え質問の力量も予定の時間も限られていた。それならば、個人的に気になっていた現代美術展と物故者の作品展示を中心にして、素朴に質問するのが良いだろうと考えた。

 質問2まで進んで予定時間の終わりに近づいていた。最後にもう一問とお願いした質問3は、松本竣介とジョン・ケージに興味あると前置きして、松本竣介に限って質問した。回答を頂いた後に、「ジョン・ケージは良いの?」と森村ADから誘って頂いたのが質問4。その配慮が有り難く、嬉しかった。

質問1  2007 年に横浜美術館で開催された森村さんの個展「美の教室、静聴せよ」。あの時、エレベーターで2階に上がっていくとアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真があって、子供たちが戦争瓦礫?を嬉しそうに片付けている写真でした。そこに『黒板と机とイスがあれば/そこはもう「教室」』というコメントがありました。これは「釜ヶ崎芸術大学」に繋がると思いました。もう少し追求すると、そこにある種のヒューマニズムが流れているのではないかなと理解しました。芸術家とヒューマニズム、森村さんとヒューマニズムの関係は、作品に反映しているか、その辺りを教えて下さい。

回答1  あまり声高にヒューマニズムと言う言葉は使いたくない、というのはあります。というのは、芸術作品は必ずしもヒューマニスティックではないです。例えば、今回のタリン・サイモンの作品とかは、かなり、何と言うのだろうな、えげつないものです。えげつないものというか、ある意味マニアックなもので、彼女の、非常に、ある意味恐ろしいと言っても良いくらいのマニアックな部分があって、一見ヒューマニスティックに見えるけれども、良く見るととても不気味なもの。しかし、そこに独特の個性とか、芸術的なものが感じられます。難しいのですが、そういうものも含めて何か芸術の表現と捉えないと、とずっと思っていることです。
 後は、ヒューマニズムかどうか判らないけれど、役に立たないものとか、敗れ去ったものとか、無視されているものとか、そんな確実に忘れ去られていくもの、そういったものに対してある種の抵抗を表明したいというのは凄くあります。それはあるかな。
 しかし、まあ教室と言うのも何か。どうしても教育という時に、何か恵まれたもの、立派なものとか立派な設備とか、そういう物が揃うことが、教育の箱、教育行政にふさわしい、そういう風に思われて、そういう物によって人は育つ、と思われることもむしろ多いですけど、そうじゃないだろうと。例えば、芸術作品もお金たっぷりあれば良い作品ができるかといえば、必ずしもそういうことではないだろう。金がない、ろくろく絵の具も買えない所に芸術が育たないかというと、そうじゃないだろうと、つくづくそう思うので。それ、ヒューマニズムと言えるかどうか。そういう忘れられた、忘れられていくものが当然だ、みたいなことに対して怒りを覚えるというのはあります。

質問2  ボランティアでカウンターに入っていると、年配の人が随分多かったと思います。ただ一般的に、美術に限らないですが、モダンとかコンテンポラリーと呼ばれる範疇になると高齢者が少ないと感じます。脇目も振らずに働いてきた団塊の世代が、高齢者と呼ばれる段階になりましたが、そういうひとたちに、もっと芸術を楽しんで頂く方法はあるでしょうか。

回答2  そうだな、別に芸術に興味を持たなくても良いと思うのですが(笑)。何と言うか、選択の一つとして、何か物を作るというのは面白いと思います。観るのもあるけど、作るというのはなかなか面白い。釜ヶ崎芸術大学でもそう思ったのですけど。釜ヶ崎の人たちは働く人たち、元働く人たちですけど、今はもう生活保護を受けているから作っていないけど。作っている、すなわち何を作っているかと言えば、都市を作ったりするわけです。高速道路を作ったり、コンピュータを作ったりするわけです。作る人だけど、恐らく彼らは作らされていた。だから、作らされていたという感じだと思うけど。今、釜ヶ崎芸術大学で彼らがやっているのは、作らされているのではなくて、自分が作っているという実感。何かこう、手ごたえとなれば凄く面白い。どんなものでも良いのです、別に。難しい現代美術でなくても良いのだけど。作るというのは、自分で何かをやるというのは、変な言い方ですけど悪いことじゃないと。搾取されている感じがしない。つまり、それが何か役に立つことでなくても良い。そこが判ると、ちょっと表現って何だろう。人間が生きることも表現だと思うけれど、それも含めて、表現とは何だろうと、ちょっと判るような気がする。そこが判ると、まさに作ることをやるのが美術なので、そこにアクセスする道があるような気がするのです。実際に何でも良いですけど、作る行為って、何かあったら良いとは思います。現代美術に繋がらなくても、全然、良いと思うけど。
 そうだね、自分で言うのもなんだけど、訳の判らない美術とか、そういうことに興味を持つのって何でしょうね。

質問3  展示を見て軽いショックを受けたのは松本竣介です。松本竣介の家族への手紙。一昨年の百年展では通り過ぎて、今回見てはっとして読んだら、非常に時代とマッチしていると。例えば、「現代の戦いは軍人の戦いでなく、政治家の戦いだ」などという文書があって、今非常に接近しているかなとの感じで受け止めたのです。そういうことは意識されていたのでしょうか。

回答3  僕も葉山(神奈川県立近代美術館葉山館)で観て「おーっ」って、その手紙。竣介が好きだったから、好きな画家なので。手紙見つけて。
何か、何なのでしょうね。非常に正直な手紙で。今からいうとあれですけど、その時代だから、45年とか44年とか46年とか。そういう本当に日本がとんでもない時代、そういう時代に書いている。あの人、若くして、もう本当に戦後すぐに亡くなってしまうのですけど、必死になって生きている感じがある。カンボウ(次男・莞氏のこと)、カンさんに当てた手紙なんかも、奥さんにあてた手紙もそうだけど、必死に。プライベートな手紙だけど、それを超えたメッセージが、確実にあるのです。カンボウにあてた手紙、「正しく生きるのだ」みたいなこと書いてあるけど、それって戦後に生きる人たちへのメッセージにもなっていたりするという、大変ある意味、威厳に満ちたものになっているのです。松本竣介という画家のプライベートな手紙だけど、本当に素直に表現された世界に成り得ていると思いました。それで是非と思って。
戦前、戦争が終わった直後、それから戦後の世界と、色々な資料とか作品を辿りながら、日本の戦前・戦中から現代までのちょっと歴史を辿って行くような。その中に芸術家たちはいかにこう。何というかな、時代と対決しながら生きていったかを見せたかったのです。その中で、確かに竣介の手紙などは本当に威厳に満ちていた。

質問4  ジョン・ケージを音楽の範疇でしか理解していなかったのです。それが美術展に出てきたことにも軽いショックを覚えたのです。そして、武満徹の最初のエッセイ「音、沈黙と測りあえるほどに」に繋がったのです。音を出す音楽家が沈黙を考えるのに、美術家にとって描くとか、彫刻しないとかいう表現方法はあるのかと。

回答4  描かないとか、言わないとか、ということですよね。演奏しないとか。そこが抜け落ちているのです、表現の中で。表現というと何か表出する、アピールする、メッセージを送る、何か伝える、情熱的に語ることを大きな目的とするという風に自分たちは思い込んでいるので。黙っているとか、絵を描かないとか、これは表現ではないじゃないかと。何もしていないからとなるのだけど。けれど、すっかり忘れてしまっているけど、ある場合には何か行為、何かを行うことが反って災いになるということがあるのですね。あえて何もしないという行為。何もしないことも行為の一つとして数える、カウントするのはもの凄く大事なことではないかと。
 例えば、東日本大震災のあのような災害とか、そんな時になるとみんな行動しようとする。何か発言しようとするとなるのですけど。それは当然、悪いことではないですけど、その中で何もしない、自分は何もしない選択の方をとっているひとは確実にあるのです。それは、何もしないから見えない。でも、何もしないことが非常に積極的な選択肢の一つになることがあるし、ノーコメントである、しゃべらないことが非常に大きなメッセージというか、発言の一つであることがありうるのです。ここは見落としがちですけど、非常に重要な点かな。
まさにジョン・ケージがそういうことを教えてくれますね。


 森村ADは、松本竣介の手紙に威厳を見出し、ジョン・ケージの楽譜から何もしないことも積極的な選択肢の一つ、と言う。真理は古びないことに改めて気づかされた。現代の文脈において語れる近代以前の良く知られた作品が、現代作品と伍して展示されるならば、現代美術展の幅を広げるだろうし、鑑賞者の作品理解にも大きく貢献すると感じた。

 あまり声高に使いたくないというヒューマニズムも要所で感じた。ここで語られたことなどを噛みしめて、ヨコハマトリエンナーレ2014を振り返えろうと思った。 (深野)