亀田問題(内藤の防衛戦、内藤対亀田大毅戦での試合前の言動、試合中の反則、謝罪までの一連の件)
その後もいろいろ言われていますね。
昨日、金平会長(協栄)があらためて謝罪したね。
日が増すごとにまわりからの風当たりもあたり具合も変ったような印象。
元々、事の重大さに気付いていた会長だったが、
あの日の亀田側の謝罪会見では副としての任務だったんだろう。
大声で、両手をつき、謝る覚悟があったように感じていた金平会長に対し、
一方の亀田側は、なんでここで俺等があやまらなあかんの?的な謝り方に見えた。
その辺を指摘されてだろうな、
亀田の所属ジムである協栄ジムの金平会長が再度謝罪をさせると言った。
あの場、その前に今日はこういうつもりで、と言えなかったか?
形だけで良いからだったのか?
それとも亀田の良心に任せたのか?
今回ボクシング界は重大事件と取り上げているだろう。
それが時間の経過によって、何も知らない僕らにも見た目だけでそれがわかる。
声のボリューム、語尾の強弱・・・
亀田が「まだやってない」とされる謝罪。
すべてを金平会長が語っている気がした。
いろいろな情報が錯綜しているようだが、答えは一つのような気がする。
ルールがある中で行われている以上、そのルールに従わなければならない。
ボクシングのルール、スポーツのルール、プロのルール、人のルール、社会のルール・・・
すべては社会のルールに則るわけだ。
視聴者や世論は社会の常識で見ている。
常識的ルールで見ている。
どうかんがえてもかけ離れているあの態度。
正すしかなかろうが。
サッカーなんかでもあるみたいだが、
ひどい反則を意図的行い結果的に怪我に至らしめた場合は、処分されて当然。
資格剥奪は当然だろう。(これを亀田にとは言っていませんよ。)
昔清原選手が言ったように、「ただじゃ済まされない問題」も本当にわかる気がする。
「命を賭けて戦っているのだから当然。」
っていう「命を賭けて」は、そういうところで使う言葉だと思い出した。
命を賭けて正して欲しい。
そうでなければ許してはならない。
そんな気がする。