あらゆる生あるものの目指すところは死である。
/ ジークムント・フロイト
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朝、ぼんやりテレビで見ていたら
光市母子殺害事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/光市母子殺害事件
の事件の判決の報道をしていました。
もうすぐ判決が出る、との事だったのでレポーターが裁判所の中からかけ出て「有罪です」とか「無罪です」とか言う風景が見たくて20分くらい待ってたんですが、主文を後回しにするという焦らしプレイにより断念。おかげで遅刻。
死刑判決でしたね。
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ついでに、死刑について考えてみました。自転車で通勤しながら。
犯人の元少年が、今回死刑判決になって良かったと思います。上告するみたいなんで確定じゃないですが。
ま、メジャーな事件なので内容については触れませんが、世間の雰囲気的にも「ああ、死刑で良かったよね」という感じじゃないんでしょうか。
特に今回は弁護団が「ドラえもんがどうの」とか「母体回帰がどうの」とか言い出したあたりで、反感が高まったように思いますね。奴等は実は死刑推進派だったのでは?とすら思えます。
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じゃあ僕は、死刑制度に賛成か?と言われるとそうでもないんです。というか、むしろ反対。
目の前に
「この犯罪者を死刑にするか?」
というYES/NOボタンがあれば、ホイホイYESを押すんですが、
「死刑制度に賛成か?」
と言われると、NOという事になります。
この「死刑には賛成なのに、死刑制度には反対」という矛盾した状態が何故発生するのか?
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僕の「こいつは死んだ方がいい」という感情は、これまでの個人的な経験や社会制度や教育によって醸成されています。強姦殺人をするような人間は死ねばいい。反省しようがしまいが関係ない。
ただ、僕はこの判断が絶対に正しいのか?と言われると「いや、『絶対に正しいか?』と言われるとゴニョゴニョゴニョ」みたいなモヤモヤした答えになるんです。
宇宙に絶対的な正義があって、その正義に背いたら罪である。そして俺が正義だ!
という脳天気な真理を信じるほど、自分は若くない。
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16歳の少女絞首刑 純潔を守らなかった罪で。(イラン)
http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/314.html
とかを見たときに「なんだこれは!」と思ったんです。ひどすぎる。
けど、この判決を出した裁判官や検事は彼らなりの正義の信念があって下した判決な訳です。しかも、彼らなりのルールに則って。
イスラム原理主義者も、
戦時中の日本の治安維持部隊も、
ナチスも、
(今話題の)中国も、
みんな同じです。「俺は悪だぜ?」と思ってやってる人は居ない(と思う)わけです。
社会通念は変化します。しかも歴史を見ると、ほとんど必ず。
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死刑には賛成。
でも、その判断は間違ってる(というか変わる)可能性がある。
イランの少女は助かって欲しかったし、光市の殺人犯には死んで欲しい。
その判断は(僕は)正しいと思うけれど、それを永遠に固定化させる制度には反対。
という事です。わかりづらい。
てな事を、四谷あたりの交差点を曲がりながら考えた次第。
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まあなんだ。人間はいつか死ぬんだから、あんまりガタガタ考える話でも無いのかもしれない。
とも思ったり。
大体、みんなまだ死んだことないですしね。